日記 2024/05/20〜2024/05/26 ナルコスとカネコアヤノと町屋良平と

2024/05/20

また起きたときに首に痛みがあった。寝違いのような痛みで、枕の高さを調整して良い感じになったかと思っていたが、どうやらまだ枕がフィットしていないらしい。枕は三段階に調整できるが、既にすべての段階を試している。つまり、これ以上調整することは不可能というわけで、一旦このまま使ってはみるが、しばらくしても改善が見られないのであれば、残念ではあるが、新調した枕は合わなかったものとして諦めるしかないのかもしれない。

今日は月1の通院の日。2駅先の病院へ歩いて向かった。昨日と同様に暑く、病院に着いたときには息があがり、体が火照っていた。血圧が高めだった。もっとも、毎年の健康診断で自動で計測してくれる機械で測るといつも高いのだ。病院の手動で測るものだと低い。なぜだろうと思っていたが、今日の看護師さんがシュッシュッと血圧の機械に空気で圧を入れていくその圧の強さがいつもの看護師さんよりも強かった。これまでの看護師さんの測り方よりも今回の看護師さんの測り方の方が自動計測器の圧に近かったように思われる。今回が正しい数値で、これまでが正確な数値が出ていなかったのかもしれない。これは自動計測器が正しいという前提であるが、血圧はこれまでにも何度か引っかかってきたからたぶんそうなんだろう。いずれにしても今日は血圧が高く、自分でも高い感覚はあった。

問題は首の痛みが1ヶ月以上続いているため、ウォーキング以外の運動ができないということだ。いや、いま書きながら考えたが、できないのはHIIT系のトレーニングで、なかやまきんに君の簡単めのトレーニングや、スクワットを中心にしたものであればできるかもしれない。この1ヶ月、HIITができないため、運動への意識が低下していていて、体重が増加傾向にある。毎日30分は歩いてはいるが、ウォーキング程度では体重の増加を抑えることはできない。医師にも体重のことを尋ねられたから、体重が増加しているのを気になったのだろう。首の痛みの様子は見ながら、できる運動からしていかないとそろそろマズい。着られる服が少なくなってしまう。

昨日から町屋良平の「しき」の再読を始めた。1冊本を読み終えたタイミングでcircleに持っていく本を探していて、もともとは「生きる演技」をすぐに読むつもりだったのだが、単行本で重い。でも町屋良平が読みたいとなり、久しぶりに「しき」の文庫本を手に取った。内容はなんとなく覚えてはいるが、数年ぶりの再読であり、町屋良平の文体によってぐいぐいと引っ張られ、そして引っかかり、そのたびにぞわぞわとする。

 音が鳴る。太鼓の音、鉦の音。音楽はおもしろい。かれは映像のなかの踊り手が踊り出す前から、音楽が鳴っていることをふしぎ、とおもった。音楽がないと踊りだすことはない。
 そうか、われわれも、音楽のために踊っているのだ。
 音楽がたのしいから。音楽を表現しているのであって、じぶんを表現しているのではない。しかし愚直に音楽を表現してはじめてであえる「じぶん」もいる。

町屋良平『しき』(河出書房新社) p.32

いつものことながら、町屋良平の文章は引用すると、漢字の開き方にいちいちうならされる。パソコンでATOKを使って書いていてはこうは書けない。

2024/05/21

昨夜「オッペンハイマー」を観た。ずっと観たいと思っていたのだが、公開終了間際のタイミングになってしまった。近くの映画館では24日までしか上映していないのだが、昨夜行ったら結構埋まっていた。

なるだけフラットな気持ちでと思って観には行ったが、どうしても感情がざわつくところがあった。僕は被ばく者3世なので直接的な被害を受けたわけではないが(被ばく3世なので勿論無関係ではない)、被ばくした祖母から何度か原爆が落ちたときのことを聞いたし、被ばくはしていない母方の祖母からも友人や知人が被ばくしそのときの悲惨さを聞いたことがあった。原爆を落とした都市としてHiroshimaのみを言及し、その後にand Nagasakiと付け足したかのように言う場面では心底腹が立った。他人事として観ることはできなかった。尋問する側にも、オッペンハイマーにも感情移入することはできなかった。オッペンハイマーの葛藤や罪悪感は理解できるにしても。

それでも映画そのものとしては素晴らしく、どの立場にいる人も観る価値があるものだと感じた。原爆がつくられていく過程、オッペンハイマーが持っていた思想、人間関係、またドイツや日本などの敵対国との間だけではない他国との政治関係。そしてオッペンハイマーの感情の揺れ動き。3時間以上の大作ではあるが、まったく長いとは感じなかった。映像と音の迫力が凄まじく、映画館で観るべき映画だとも思った。配信などでリリースされたらまた観たい。

今日はスペイン語レッスンの日。
気づけば1週間経っていて、大して学習が進んでいないことに気づいて自己嫌悪に陥る。もっと学習のペースを上げていかないと本当にもったいない。

これまでのスペイン語のレッスンで気づいたのは、学習したスペイン語を実際に使うことの難しさだ。

動詞の活用の初級ついては記憶し、理解しているつもりではあるものの、実際に使うとなるとうまく活用させることができない。

¿Qué bebes normalmete?
の問いに対して、頭ではbeboを使うとわかってはいても、相手の言ったことにつられてついついbebesを使って答えてしまう。

あと、もう一つの罠は発音だ。

スペイン語は英語と似ている単語が多いため、初めて接する単語でもおおよその意味を掴めることも多いが、会話で使うとなると話が別だ。目にすると似ている単語でも、会話で使われるとさっぱり意味がわからない。何度も繰り返し言われると単語の意味がわかるが、それは発音された単語と見て覚えた単語が頭の中で紐づいたから。つまり、綴りを頭の中で書いてみないと理解できないのだ。英語と似ているがゆえの罠である。英語と似ていると言っても全く違う言語だという事実を、会話をすることで初めて実感することができた。

さて、アイスブレーク用の先週末の話題の準備。

音楽フェスティバルに行き、たくさんのライブを観ました。
Fui a festivales de música y vi muchos espectáculos en vivo.

ほとんどが日本のミュージシャンで、タイのミュージシャンも1組だけいました
La mayoría de ellos eran músicos japoneses y sólo había un grupo de músicos tailandeses.

「ほとんど」は「La mayoría 」。

2024/05/22

散髪。

僕の髪の毛は伸びに伸びまくっていて、ロン毛と行っても差し支えないほどの長さにまでなっていた。スタイリングをすることもなく大抵は帽子をかぶっていたのだが、帽子をかぶるとスタイリングしなくともある程度見られる形にはなっていたのは、4ヶ月前にかけたパーマがしっかり残っていたからだった。今回はその伸びまくった髪の毛をある程度切ることと、そしてパーマがかかった状態の楽さを知ってしまったので、またパーマをかけ直す予定にしていた。

ある程度切ることは決めていたが、基本は美容師さんへお任せで特に要望もなかった。パーマも同じようなものでよくて、ロットの太さを変えるのなら変えるので問題ない、とくかくお任せでとお願いした。福岡に来て以来、10年以上お世話になっている美容師さんなので、明確な髪型の希望があるとき以外はいつもこんな感じで、その場で美容師さんがどうしようかなぁと考えてくれる。

いつものように家族3人とも散髪をお願いした。僕がパーマを巻いたあとの待ち時間に妻と娘の髪を切ってもらう。

ところで、「La casa de papel」を観終えたあと、スピンオフの「ベルリン」を観始めたもののあまりしっくりとこず(そのうち観るとは思うのだけれど)、何を観るのか迷っていたのだが、結局「ナルコス」を観ることにした。ナルコスはコロンビアが舞台で、使われるスペイン語も「La casa de papel」とは違う。使われる単語も、たぶんイントネーションも違う(コロンビアが舞台ではあるが、アメリカから派遣された麻薬取締捜査官が主人公なので英語も使われる)。最初は聞き取りづらいこともあったが、ドラマを観続けているうちに、少しずつ聞き取ることができるようになってきた。このドラマは、パブロ・エスコバル役のヴァグネル・モウラの存在感が素晴らしく、途中からは腹が出ていることも含めて格好いいとさえ思うようになってきた。ほぼ毎晩観ているから、仕事中でもヴァグネル・モウラの顔が思い浮かぶようになっている。

パーマをかけてもらったあと、長さもある程度短くしてもらって、それでいて良い感じにパーマもかかっていて大変満足したのだが、鏡に映る自分を見たときに、ナルコスのヴァグネル・モウラにすごく似た人がいた。これは勘違いではなくて、美容師さんにそのことを話しても、妻に聞いても同意していた。ソース顔で髭、おまけに体重は増加傾向にあり、腹も出ているし、顔に肉もついている。うーん、似ている。たしかにナルコスを見ていて格好いいと思い始めていたところではあるけれど、ヴァグネル・モウラのようになりたいかと言えば決してそうではない。似ていることに不満ではないが、嬉しくもない。で、もっと言えば、僕の顔はパブロ・エスコバル本人にさらに似ているらしい。それは自分でも思うが、何とも言えない。

髪は伸びる。が、おそらく1ヶ月くらいは「ナルコス」を見るたびに、鏡のように自分の顔が浮かんでくるというのは複雑である。

2024/05/23

「ナルコス」はコロンビアが舞台なので、「La casa de papel」で使われるスペイン語と少し異なるのは昨日の日記で書いた通りだが、もともと僕は南米のスペイン語で学習を進めてきたため、「ナルコス」の方が普段学習しているスペイン語と近しいということになる。普段学習している、というのはDuolingo のことで、僕は覚えていないのだが、学習を開始する際におそらくスペインのスペイン語と南米のスペイン語があって、どうやら南米のスペイン語を選んだらしいのだ。いま確認してもDuolingoには南米のスペイン語とは表示されていなくてただSpanishとだけあるが、南米のスペイン語であることがわかるのは、これまでDuolingo で学習してきた中で、二人称複数の代名詞であるVosotrosが出てきたことがないからだ。

Vosotrosではそれ用の活用があるのだが、南米ではVosotrosがない代わりにustedesを使う。これは三人称複数の活用と同じなので、覚える活用形が一つ少なくて済むのである。
ところが、スペイン語教室に通い始めるとこれが罠で、スペイン語教室では南米スペイン語に特化しているわけではないのでもちろんvosotrosも出てくる。が、僕はVosotrosの活用は覚えていない。今になってまた改めてvosotrosの活用を覚えている。

学習してきたのはスペインのスペイン語だけれど、「La casa de papel」と「ナルコス」のスペイン語を比べたときに聞き取りやすいのは「La casa de papel」であるのが不思議なところだ。最近ようやく聞き取ることができるようになってきたが、「ナルコス」のスペイン語は、僕にとっては少し発音がわかりづらいところがある。ただ、ヴァグネル・モウラはコロンビア人ではなくブラジル人。母国語は南米のスペイン語でもなくポルトガル語で、聞き取りにくいのはそれが影響しているのかはわからないが、母国語ではないにしてもネイティブに近しいところまでスペイン語を習得しているはずで、僕がそこまで聞き取ることができるのか。

「ナルコス」を見始めるようになってから嬉しい出来事もあった。先日のホークス戦でのモイネロのヒーローインタビューで、そのスペイン語を少しではあるが聞き取ることができたことである。ホークスには数年前までデスパイネ、グラシアル、モイネロとキューバトリオがいて、ここ数年のヒーローインタビューを聞き返していたが、彼らのスペイン語はほとんど聞き取ることができなかった。聞き取りやすいと思ったのはオスナで、オスナのスペイン語は聞き取ることができるのに、モイネロのスペイン語はわからない、というのがこれまでだったが、モイネロのスペイン語を聞き取るができるようになったのは大きな一歩である。

もっともこれが「ナルコス」のおかげなのか、スペイン語教師に通い始めたからなのかはわからない。いずれにしてもこれは喜ばしいことには違いなく、モイネロのヒーローインタビューはこれから先数年もあるだろうから、通訳より前に理解できるようになればそれは一つの目標達成と見ていいだろう。

2024/05/24

昨夜は会社の久しぶりの飲み会。
一人別のチームへ移動する同僚がいて、本来はその見送り会も兼ねる予定だったが、当の本人が来ることができず、チームの他の同僚もほとんど行けないというよく分からない状況となり、結局他のチームとの飲み会となった。久しぶりに話す人や初めて話す人も多かったが、とても楽しい飲み会だった。

「ナルコス」をシーズン2まで観終えた。パブロ・エスコバルは死んだ。3シーズンまであるのでまだ終わってはいないが、パブロ・エスコバルが死んだとなってはあとの1シーズンはおまけとまではいかないにしても、ヒリヒリする感じは薄くなるだろう。死ぬときはあっけないもので、あぁ死んだかぁとなった。

実話に基づくドラマで、パブロ・エスコバルはドキュメンタリーやバラエティでも観ていた通りの卑劣で残忍な悪者だったし、一方で警察や麻薬捜査官もかなりクレイジーで正義の味方という感じでもなかった。パブロ・エスコバルは完全な悪者ではあったけれど、家族を愛し必死に守ろうとする父親としての姿や、人間らしい部分がかなり濃く描かれていて、特にパブロ・エスコバルの妻や、長男、長女を見るときの表情にはグッとくるものがあった。世界的な麻薬王であっても、人間である以上は人間らしさがあるのは当たり前のことかもしれないが、その描かれ方に見ていて胸が締め付けられるようなところがこのドラマの人気さ所以なのかと思う。パブロ・エスコバルは死んでしまったが、残り1シーズン、そしてメキシコ編まで観たいと思う。

今日はカネコアヤノのライブ。チケットはソールドアウトだが、100番台の良番なので体調万全で臨みたかったところだが、昨日の酒が少し残っていて万全とは言いがたい。まぁ待っている間に体調も戻ってくるだろう。しかし相変わらず首は痛い。

2024/05/25

朝、会社に向かうべく公園を通って歩いていたら、もふもふの毛の見たことのない生き物がこっちに向かって歩いてきた。5メートル先まで近づいてきてもそれが何の生き物なのかわからず、この変な生き物は僕を食べるか攻撃しようと近づいてきているのかと恐ろしくなってこの事態にどう対処すべきかと迷っていたところ、1メートル内に来てようやくそれが犬であることがわかった。その後ろに飼い主らしき人が歩いてきていた。そこまで近くになるまで犬であることを認識できなかったのは、犬が逆立ちして歩いていたからである。犬が逆立ちで歩いてくるなんて思わないでしょう、ふつう。茶色のもふもふの毛並みで、あれはトイプードルなのか、犬に詳しくないからよくわからないが、とにかく小さめでもふもふの生き物が逆立ちだから動き方もなんだか奇妙で、とにかく朝から恐ろしかったのだ!

飼い主の前で逆立ちで歩いてみせるちっちゃなわんこだったとはいえ、朝からそんな恐ろしい出来事に出くわしたからか、オフィスに着いて仕事をしていると眠気が襲ってきて仕方がなかった。仕事もそこまで忙しくはなく、淡々と仕事をこなしていくだけ、ずっとガムをかみ続けたが眠気はなくならないどころか増していくばかり、これは爆音で音楽でも聴いてないとヤバいぞと思って、しかし何を聞くべきかすぐには思いつかず、こんなときに眠いときに聞く音楽を考えておくべきなのだろうと今さら思っても既に遅し、メタルやハードロックには明るくないしさてどうしよう、ここは強烈なビートだ!言葉だ!音楽でかき乱すのではなく頭を働かせるのだ!と思ってC.O.S.A x KID FRESINOの「Somewhere」を聞いたところばっちり目が覚めた。あとRMの「Right Place, Wrong Person」を聞いたらすごい格好よかった。岡田拓郎がギターで参加しているとか。とにかく目が覚めてよかった。

昨夜のカネコアヤノのライブでは、さらにパワーアップしたバンドを観ることができた。2022年のWind Paradeの映像を観たときからHikari Sakashitaという名の、それまで聞いたこともなかったドラマーの音に衝撃を受け、それからカネコアヤノの歌もそうだが、それ以上にHikari Sakashitaのドラムの音を追いかけるようになった。たまたまではあったが、昨日のライブでもHikari Sakashitaのドラムが一番観られる位置に立つことができ、カネコアヤノを視野に入れつつも基本はHikari Sakashitaを観ていた。短髪で細身の筋肉質であることはこれまでと変わらないが、いつの間にか髭を蓄えていて、ステージに出たときから上半身裸だった。いつものように目がギラギラしていた。
ドラムを観られる位置にいたから、ドラムを叩いて音が鳴る前の瞬間を何度も目にしたのだが、ためがあってそこから音を発するその瞬間、これからドラムの音が鳴るぞというその瞬間に聞いている僕の体も反応する。音楽は基本受け身で体は音に反応するものだが、受け身である体が反応する瞬間に自分自身が立ち会うそのことに感動した。町屋良平の「しき」を読んだばかりだったからかもしれない。Hikari Sakashitaのドラムはさらにパワーアップしているというか、バンドとしての完成度が上がっていて、既存の曲でも全く違うアレンジ、音でとても面白かった。

 指先からつながる、腕の上げおろし、肩のやわらかさ、背筋の固定、全身の弛緩、そのすべての要素がまざりあって、いま音楽がつくりあげられている最中なのだと。「最中」なのだと、すべてはつくりかけられている状態でさしだされている。楽譜の段階ではまだ完成していない音楽が、こうして壇のすぐれた肉体の運動によって、「最中」が「完成」につながっていく。
 だけどさいごの一音が奏でられた瞬間に、「完成」が「最中」にもどる。
 音楽は聞いている最中にしかない。
 瞬間瞬間をひとつの音楽の時間と錯覚させるような。
 取り出し不可能な「運動」なんだ!

町屋良平『しき』(河出書房新社) p.109

2024/05/26

昨日引用した町屋良平の「しき」や、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読みながら、娘に踊りを習わせることを決断したことは果たしてどういうことだったのだろうと考えていた。習わせて既に3年以上が経ち、どんたくを始め数多くの舞台にも出演し、習う前に引き返すことなんてできないわけだが、踊りを習う前の、型とか関係なく自由に踊っていた娘の、それこそ音があったら踊らずにはいられない姿がいまだに思い起こされるのだ。

踊りを習わずに今の年齢まで成長していたとして、あのときのように踊り続けていたかはわからない。踊ってはいたかもしれないが、体の成長や聴く音楽の変化とともに踊り方もきっと変わっていたかもしれない。が、あのまま成長していたとして、どれほど自由に踊り続けていたのだろうと思わずにはいられない。

しかし一方で、踊りを習うことでしかできない動きが出てきたことも事実としてある。K-POPが好きな娘はその動きをトレースするが、そのときの踊り、腰の入り方や腕の動かし方などにダンス教室で習っただろう動きがあらわれている。K-POPでの踊りは遊びの踊りだが、その遊びの中でも踊りの技術が反応として出てしまう。いや、出てしまうというのか、出ること自体はポジティブなことだろう。

ダンス教室で踊りの型を習う。習うことは体の動きに一定の制限を入れることで、それは結果的に生まれもった体の動きを失わせることになったかもしれない。しかし、練習の踊りとは別の遊びでの踊りにおいても、その制限が踊る際の動きへ浸食し、音楽への反応の仕方を変えたこと、それは踊りとしての可能性を広げることになった可能性があるとも言えるのではないか。それにいくら習ったところで、娘の中で失われることがない動きはあるはずだ。僕個人としては、それを見つけて大切にしてほしいと思う。

いま考えたとしても仕方がないことかもしれないが、僕や妻が踊りを習う前の自由に踊っていた娘の姿を覚えているというのはきっと大切なことなのだ。

…と真面目くさってそんなことを書いているが、現実として、いま娘はK-POPの踊りをトレースしているから、妙に大人っぽい踊り方をするようになっている。セクシー路線の。そのセクシーな感じのままレッスンに挑むことがあるようで、ダンス教室で先生から指摘されることもあるようだ。それはどう捉えたらいいのだろう。自分の踊る姿を動画に映しながら踊る娘の表情は、とても5歳には見えない。挑発するような目、舌を出したり、手をピストルのようにして打つ仕草…。そんな姿を見ていると、ダンスを習っていようがいまいが、きっと娘の踊りは変わらずにはいられなかったのだろうとも思う。セクシー路線の娘のダンスを観ていると驚きとともに観ているこっちが恥ずかしくなってしまうのだが、結局のところ見守ることしかできないのだ。

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