日記 2020/09/30

昨夜から植本一子の『家族最後の日』を読んでいる。その結末を既に知っているだけに読み進めるのは辛くもあるが、ずっと読んでしまう。今日中には読み終わりそうで、明日本屋に行って『降伏の記録』を購入しようと思っている。

読みながら亡くなった祖母のこと、そしてその後母が言った言葉を思い出した。

「死んだら終わりよ、死んだら何もかもなくなる」

祖母が癌で亡くなるまで、母はずっと祖母の世話をしていた。毎日のようにお見舞いに行き、祖母と話し、急激に体調が悪化する祖母をそばで見守った。

亡くなったあと、母が一度祖母と距離を置いたことを聞いた。亡くなる数ヶ月前から、モルヒネの影響からか祖母の言っていることがおかしくなってきたらしい。記憶が一部消失し、一時期は少女のように幼く振る舞うようになったと言う。ずっと一人でかかりっきりだった母はしんどくなって、しばらく病院に行かなくなってしまった。そんななか、祖母は、自分の家の電話番号は忘れていたのに母の家の電話番号を覚えていて、看護師さんに「ぜろきゅーごーろくにー○○○○にでんわをおねがいしまーす」と言って母に電話をかけたという。母はそれから病院へ戻った。

そんな祖母の姿を僕はまったく知らない。元気な祖母の姿しか知らないのだ。

そろそろ祖母が危ないと母から電話がかかってきて、祖母のもとに行くことができたのは亡くなる数時間前のことだった。
弟はその前日に祖母に会っていた。弟を見た祖母は弟が誰だかわからず怯えた様子で、そんな祖母の姿を見た弟は号泣した。
僕が祖母の病室に着いたときには、もう祖母の意識はなかった。だから僕は弟が見たような祖母の姿を見ていない。

そのことを僕は何度も後悔した。その前に帰ろうと思えば帰ることはできたのだ。だが、母は絶対に会わない方がいいと言った。会ったらあんたらが好きだった祖母のイメージではなくなると、ショックを受けると。実際に弟は深くショックを受けていた。母自身もそんな祖母にまいっていたのである。
僕は祖母の最期を見届けることはできたけれど、意識を失う前の姿を見ていない。見ていないから、どんな様子だったのか母や弟の話から想像するしかない。僕もショックを受けただろう。受けないはずがない。大好きな祖母だったのだ。

『家族最期の日』を読んで、祖母のことを思い出すなどおかしいような気もする。僕は闘病していた祖母の姿はほとんど見ていないのだから。『家族最期の日』には石田さんがいなくなったらどうなるのだろう、どうしようといった一子さんの言葉が何度も出てくる。おとずれるかもしれない石田さんの不在がそこにはある。僕も祖母が闘病中、離れた地で、そう遠くない未来におとずれるであろう祖母の不在に恐怖を感じていた。どうかそんな日がおとずれることがないようにと、ただそう思っていた。その記憶から思い出したのだろうか。わからない。

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