クオリア、そして僕だけの世界

クオリア とは茂木健一郎を一波とし、世の中に広く知れ渡る言葉になったように思う。とはいえ知らない人はまだまだたくさんいるし、脳科学に興味がないって人も多いだろう。

クオリア(英: qualia(複数形)、quale(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。 日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。(参照:wikipedia)


なんのことだか。


簡単に説明すると、主観は共有できないという話だ。

例えば僕がりんごを見ている。赤いりんごだ。りんごが赤いのは明白だ。君の目にも赤に映る。でも、二人とも見ているものを赤だと思っていて、だけれどもそれが同じ赤かどうかは誰にもわからない。例えば眼球内の電気信号の受容器に異常が起きていて、その人にとって赤は "一般的に"青と言われている色に見えているかもしれない。そして青は"一般的に"赤と言われている色に見えているかもしれない。

ここで一般的と強調しているのには理由があって、一般的と言われる色ですら、個人にとってどう見えているかはわからないのだ。見えている人の個人差はあるし、そしてその個人差は共有することができない。

ややこしくなってしまった。僕もややこしくなったと思う。

つるつる、という感覚がある。今僕が触っている机はつるつるだし、僕が使っているMacbookAirのアルミボディはつるつるよりかはさらさらしている。触ってみればディスプレイはつるつるだ。仮に、他の人が触ってこれをつるつるやさらさらと、全く同じ表現をしたとする。でもそれは数値として規定されたものではなく、感覚によるものだ。表面のざらつき具合がこれぐらいで、摩擦度がどれぐらいのものをつるつると言う、と決まっているわけではない。感覚によるものだ。僕はこの触感を、机の上に指を這わせる感覚をつるつると呼ぶことにしている。


そうしてふと思う。僕が感じているすべての感覚は僕だけのもので。空いている窓から入ってくるそよ風も、少し明るい空も、今日飲んだ紅茶の味も、僕が聞いてる音楽も、まだ青いが鼻をくすぐる金木犀の香りも。

すべてすべて僕だけのものなのだなと。

生きていることに感謝、なんてのは柄じゃないけれども、僕だけの世界なんだなぁと思う。感覚は共有できないからこそ、独り占めしようと思った昼下がり。

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