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人の一生……誰かの人生 (『小さいおうち』を読んで・・・)

中島京子の小説『小さいおうち』。昨日一日で読み終えることができた。

友達のたかちゃんが「大好き」…と言っていた山田洋次監督の同名映画の原作。

昭和の始め頃、田舎 (東北) から口減らしの為に上京し、女中となって働き始める “タキ” の物語。

タキの長い女中生活の中でも忘れることのできない、“平井”という家での思い出。タキは時子という美しい女性の為に、家事の一切を上手に切り回していくことになる。

タキは美しい時子を信奉していたのだろう。お嬢様育ちで無邪気な時子の一挙手一投足に、タキが眩しい視線を送る様子が伝わってきた。タキにとって、「自分の居場所はここだ。自分の家はここだ」と思える場所は平井家しかなかった訳で。

“誰かに仕えたい”…という思いを、自分も持っていたことがあった。1979年の大河ドラマ『草燃える』に感化されて、当時中学生だった自分は一時期歴史もの (主に鎌倉時代) に凝りまくった。滅法面白く読めたのは『源義経』。確か村上元三が書いたものだったと記憶している。歴史的な事実とは恐らく掛け離れているだろうけれど、物語としては面白くて夢中で読んだ。その中に義経を慕って集まってくる家来というのが沢山出てきて、「主従の関係」みたいなものに自分は凄く憧れた。その頃なりたいものは「従僕」だった。ちょっと変かもしれない。だが、誰か “この人” … と見定めた人の為に尽くすことができたら幸せだし、自分にはそういうのが向いているんじゃないか…という感覚があった。

だからこの『小さいおうち』の主人公であるタキという人の気持ちはよく解るような気がする。そこに同性愛的なものが内包されていることも。

映画の方では背後に「それ」があることは、うっかりすると見過ごしてしまいそうな仕上がりになっているのだけれど、原作の小説でははっきりと言葉として二度ほど出てくる。けれど、生々しさとしては映画の方が上回っているかもしれない。タキが時子の脚をマッサージする場面での逡巡を示す描写など、“そう” と思って観ればかなり露骨だ。映像というのは「ズバリそのもの」だから。

同様に時子の不倫についても、映画の方がやはり生々しくて、原作の方はそうでもない。

タキは自分の時子への気持ちがどういう種類のものか、あまりはっきりとした自覚はなかったのかもしれない。また、それが分かっていたのだとしても、一人称で語られる文章は或る意味「要注意」だ。タキがこの文章をどのように綴っていくのか考えているような描写があったように思うが、それはもしかしたらその辺りのことを「どこまで書くのか、或いはボカすのか…」という考慮だったのかもしれない。

映画では省かれている (…というより設定の変更か…) が、原作では平井雅樹との結婚は、時子からしたら再婚であり、子供の恭一は雅樹との間の子ではない。タキだけでなく、雅樹も女性への関心は持たない、ひょっとしたら同性愛者かもしれない人物として描かれているが、それらしい感じはあまり出ていない。

映画のレビューを見ると、時子の不倫相手を演じた吉岡秀隆は、あまり評判宜しくない。自分もそれには同意だ。吉岡秀隆だと、どこか幼過ぎる印象を受ける。もう少し、得体の知れないような雰囲気の人の方が良かったのかもしれない。山田洋次監督だからこそのキャスティングだったのかな…という気がする。

原作『小さいおうち』は、戦前の、もしかしたらこれこそリアルだったかもしれない生活が描かれている。タキの工夫して作る料理が本当に美味しそうだし、楽しみの一つである “たまの贅沢”、銀座や鎌倉へのお出掛けなど、本当に楽しい。余韻に溢れた美しい作品だ。

ただの一庶民に過ぎない、タキの一生。特別、誰かの注目を集めることもなく埋もれていく、一人の人物の歴史。この作品を愛した僕の友達も、真実の分からないまま、僕の目の前から居なくなろうとしている。友達の一生の、或る一部分だけだけれど、関わることのできた幸せ。記憶の中の宝物です。



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