自分史〜一体何に没頭すればいいのか〜

【生まれてから】
 小さい頃はハイハイが嫌いで、膝を地面につけずに四つん這いで移動したり、走ることができるようになったら、暇だから走ると言って走り回ったりしていたようです。喘息があり高校を卒業するまで薬と吸入器で対応していました。夜中に発作が起こり何度も父親に病院に連れて行ってもらったことがあります。しかも車酔いもひどいので、車で運ばれている途中に嘔吐してしまうということも多々ありました。両親は仕事で忙しく、同居している祖父母と共に過ごす時間が多く、ウインナーの皮が固くて噛みちぎれないので祖母に皮を剥いてもらって食べさせてもらうほど過保護に育てられました。近所の人との交流はほとんどなく、常に家で過ごすことが多かったと思います。ブロック遊びが好きで何かを作るのが好きでした。これは今も変わらず、ブロックなどがあればすぐに何かを作り始めます。普通のものというよりも突拍子のないインパクトのある作品に仕上げるのが好きです。

【保育園時代】
 みんなから遅れての入園になったことによってかどうかわかりませんが、みんなの輪に入るのが怖かったです。「みんなvs自分」というか「社会vs自分」のような構図だと感じていました。今までずっと家にいたのに急に保育園に行くようになり、社会というものに触れて恐怖という感情が最初に湧いてきました。遊びはみんなとではなく自分で何かをやるというものが多くて、一番楽しかったのは連日泥団子を作るというものです。1人で泥団子を作って、その日の帰りに倉庫の裏に隠して、翌朝また泥団子を手に取り丸め始めるというものです。そして強度を試すために定期的に滑り台を転がすということを繰り返して、まんまるの泥団子ができると満足であり、強い泥団子が一番いいと感じていました。他にはボールをキックして保育園の屋根に乗せることができるかというものに挑戦していました。ボールを屋根に乗せることは禁止されていましたが、ある日ボールを乗せることができてしまい、祖父と一緒に先生に謝ることになりましたが、満足でした。また、自転車に乗れるようになるために練習していた期間が印象に残っています。自転車に乗ることができた場面というよりも、練習を積み重ねている日々が印象に残っていて、何かを成し遂げようとしている最中の期間が好きなのかもしれないと感じます。

【小学校時代】
 小学校入学前から通っていた水泳は、どうしても嫌になり辞めました。できればずっと家にいたいという思いが強かったです。それでもなぜか父親の影響で小学校3年時からラグビーを習い始めました。同じ小学校でラグビーを習っているのは私だけでしたので、他とは違う習い事をしていて何となく自分に合っていると感じていたからかもしれません。小学校6年時にはチームのキャプテンを任され戦いました。学校生活では普通の小学生だったと思います。修学旅行での謝辞代表や、中学校入学時での代表挨拶などは選ばれていました。しかし誰かを引っ張るとか、サポートするといった対人支援への興味は全くなく、逆に相手の気持ちが分からなかったり、人付き合いは面倒臭いという思いがあったりしました。大人になってから当時の担任の先生には「君は人に譲ってばかりだった、もっと自己主張していいんだよと当時は言った記憶がある」とおっしゃっていただいたほどです。できれば1人で家で何かをやっておきたい、約束の時間などなく、気が向いたことをするだけの生活がいいなと思っていました。一時期小学校に行かなくなった時がありました。体調が悪いと言っていましたが、学校に行く意味がわからなくなり、家にずっといた方が楽だからという漠然とした思いがあったからです。どうしても学校に行かなければならなくなった時は、何かへの反抗なのか、真冬でも半袖半ズボンで登下校しました。何回も風邪を引きましたが、それでもやり通しました。何かにチャレンジしたかったのかもしれません。快適な生活というのがなぜか嫌いで、そのような快楽に溺れてしまう自分の怠惰が嫌いでした。そういったものを断ち切りたい思いと、断ち切れない自分との葛藤があったように感じます。ただ何かに没頭したときには、快楽とか怠惰などが関係なくなり最高の状態だったように思います。ゲームで全面クリアを目指す時などです。ロールプレイングは嫌いで、アクション系の自分でキャラクターをコントロールして動かすものが好きでした。全面クリアを目指して何ヶ月も取り組んだ挙句、ついにクリアした時、泣いてしまった記憶があります。それは悲しみの涙です。「明日から没頭するものがなくなってしまった」という感情です。

【中学時代】
 中学校に進学すると、土日はラグビーのクラブチームに参加し、平日は中学校の柔道部に入部しました。ほとんどの部員が柔道経験者だったので素人の私は劣等感を感じ続けました。体も小さくて柔道では投げ飛ばされ、ラグビーのクラブチームでは大きな相手に敵わず劣等感ばかりでした。自信もなく体力もない、負けん気よりも恐怖の方が先に立つ、という中学生でした。日常生活も自分が少し偉そうにできるメンバーと一緒にいました。ちょっと背伸びをすれば賑やかなグループに行けるかもしれませんでしたが、なるべくひっそりと誰にも気づかれないように自分の快適な空間を作って過ごしていました。全体的に自信がなかったのです。周りと比べて社交性も体力も筋力も何もかも劣っていると思っていました。目指すべきものなど何もなく、充実感のない日々でした。クラスの学級委員が決まらずに、担任の先生がわざわざ私のところまできて、やってみたらどうかと言われてことがありましたが、絶対にやりたくないと思っていました。他人と何かをすることや、チームをまとめるというようなことはなぜか絶対にしたくないと思っていました。密かなリーダー性や適性はあるという自覚はありましたが、この時は特に拒否反応を示しました。授業では、美術の時間での作品作りなどに興味があり、技術や家庭科で何かを作ることも好きでした。シンプルでインパクトのあるものを好んで作ろうとしていました。

【高校時代】
 高校に進学すると、ラグビー部に入部しました。ラグビー経験者は私ともう1人の合計2人だけで、あとは高校から始める部員を集めました。毎日の練習はきつかったのですが、楽しくみんなでワイワイやっていた感じです。私自身も勝ちたい、上手くなりたいとは思っていましたが、そこまで欲求は強くなく、なんとなくラグビー部に入ってなんとなく活動していたという感じです。目標もなく、ただ毎日の練習をこなしていく。そして学校生活を適当に楽しくやっていく。特に可もなく不可もない高校時代です。たまたまラグビー部に元気のいい人間が多かったので、学校の中でもラグビー部が中心的な存在になり、文化祭や体育祭を盛り上げました。文化祭ではステージに出てみようとバンドを結成して出場して、私はドラムを担当しました。体育祭ではリーダーとしてみんなの前に立って演技をしたりしました。これらは私というよりもラグビー部の中の私が行っていたもののように思えます。心の底から湧き上がる自信ではなく、周囲に影響を受けた表面上の自信のような感覚がありました。ただ、自分の進路について考えるときに、なぜかいつもワクワクしていました。どのような未来にしていこうかと、未来を考えるだけでなぜかワクワクするのです。周囲は進路を考えることを嫌がっているように感じましたが、私は未来を考えるのが好きでした。とんでもないことに挑戦したい気持ちはどこかにありつつも、自分に自信がない面もあり、そんな自分を変えたいという気持ちもありました。ラグビー部の最後の試合で相手にコテンパンに負けてしまい、まだまだ上がいるのに「この辺でいいか」と自分で区切りをつけることが嫌で、一番上までいってみたいという思いからラグビーを続けるために大学に行こうと決めました。そしてどうせするなら、とんでもないところでやりたいと考えました。2ヶ月間一般受験に向けて勉強しました。すごく楽しくて充実していました。大晦日も正月も。神社にお参りに行く人を見て「なぜ神様なんかに頼むのだ?そんな暇があれば勉強すればいいのに」と思っていました。そして合格しました。その時、悲しみの感情が湧いてきました。「明日から一体何に没頭すればいいのだろうか」と。

【大学時代】
 大学は日本一ラグビーの練習がきついと全国的に有名だった大学に進学しました。毎朝6時からの朝練習や夕方4時間にも及ぶ猛烈な練習を重ねる上で、自分の弱さや情けなさと向き合い、「自分」という人間が何者なのか、アイデンティティが明確になり始めました。激烈な練習に取り組むうちに、練習ではなく自分と向き合っているということに気づき始めました。ひたすら自分と向き合うことで、今まで培ってきた見栄やプライド、世間体、色々なものが剥がされていく感覚を味わいました。また、私は一般入試で入学していましたが周りの25人の同級生はみんなスポーツ推薦で入学しており、技術の差に劣等感を覚えるとともに、1年目が終わる頃には主務への打診、すなわち戦力外通告を受け、ショックを受けました。そこから練習が休みの日にも1人でトレーニングに励むようになり少しずつ自信と体力がつき始め部員100人の中でレギュラーを掴むことができるようになりました。全国大会準決勝で国立競技場のグラウンドに立った時の感覚や、試合に勝った時にスタンドで涙を流している仲間を見た時の感動が今でも目の前に広がってくるほどに強烈な印象として残っています。無名校から一般入試で入部して、一番下から努力だけで這い上がった自分を誇りに感じています。またその4年間で経験した強烈な感動体験は私の人生に大きく影響を与え続けています。「やればできる」や「思考は現実化する」といったキーワードが私の人生を通じて高い価値を感じるものとなりました。さらに、私のプレーを見た観客の方が顔を真っ赤にして私の名前を叫び続けるというシーンが今でも頭から離れず、何者でもないと思っていた自分が、名前も知らないどこかの誰かの心を揺さぶることができるのだという自己効力感を得る経験もしました。ただし、ラグビーを引退した後の生活は惨めでした。何も目指すべきものがないのです。今までできなかった一般人の大学生生活や旅行をしてみましたが、心からの充実感を得ることはできなかったのです。常に何かを探していました。「一体何に没頭すればいいのだろうか」と。

【新卒時代】
 新卒で住宅会社に入社し、住宅営業職を選択しました。理由は、営業マンとして最高の信頼を得ることにチャレンジしたいと思ったからです。住宅は人生で一番高い買い物だと認識していましたので、それなら一番信頼できる人から買うはずだろうから、安いものを大量に販売する営業マンではなく、「この人から買いたい」と思われるような人間になりたい、信頼の分野なら私は能力は高い、という思いがありました。また営業という、歩合制給料にも魅力を感じ、自分の可能性にチャレンジしたいという思いもありました。実際に仕事をしてみると、いかに自分が社会不適合かということがわかりました。決められたことや既存のやり方がどうしても嫌なのです。様々な決まり事に反発しながら我が道を切り開こうとした結果、完全に孤立してしまい社内に居場所がなくなってしまいました。それでも全国に散らばった同期100人の住宅営業マンの中で一番になりたいという思いだけはありました。そして上司のおかげと様々な偶然が重なり最優秀新人賞を獲得、目標を達成して本社での表彰を受けました。1年目は九州で活動していましたが、2年目は神戸に転勤になり活動の拠点が変わりました。会社内は相変わらず居心地が悪く、活動の意義が見出せないまま時を過ごすことになります。新しい地で心機一転自分を奮い立たせようともしましたが、どうしてもやる気が起きず、本当に自分がしたいことは何だったのかということを営業中の車の中で悶々と考える日々が続きました。そんな時にふと大学時代に過ごした土地に行ってみようという気持ちになりました。実は大学時代に、「教員という道もありかもしれない」と思い、教員免許だけは取っていました。そして当時の教育実習先として紹介された高校で2週間過ごしていました。その時にお世話になったラグビー部の監督さんにも挨拶をしに行こう、また、高校ラグビーというものに触れてみると何か心のモヤモヤが変化するかもしれないという思いから高校にも行ってみることにしました。そこには教育実習中に1年生だった高校生が3年生になっている姿がありました。みんな大人っぽくなっていて頼もしくなっており、感動しました。さらに、私が教育実習中に強制的にラグビー部に入部させたヤンチャな1年生も3年生としてラグビーを続けており、さらに感動しました。そして帰り際、その子から言われた言葉が私の人生を方向付けます。「あの時ラグビー部に入っていなかったら学校すら辞めていたかも知れません」。私は衝撃を受けるとともに確信しました。高校ラグビーチームと関わって生きていこう。私が大学時代経験して来たような感動体験を高校生にも味わわせたい、成長させたいと思うようになりました。そして目標が決まりました。「高校ラグビー日本一」。

【科目履修生時代】
 会社の上司には退職願を書き、提出しました。「給料も休みもあって今の方が絶対いい、そもそも教員採用試験は難しすぎる」と言われましたが、気になりませんでした。親からも「教員採用試験に合格するには勉強しないといけないんだよ」とネガティブな感じで言われましたが、「それなら逆に一番勉強すれば合格するじゃないか」と思い、退職をしました。9月30日に退職し、夜中にバリカンで頭を丸め、翌日の10月1日から大学への登校を始めました。決断した証としてその日から今までずっと坊主にしています。大学時代には法学部だったので社会の教員免許は取得していましたが、体育の教員の方が高校ラグビー日本一に近いと思い、もう一度大学に通い直し体育の教員免許を取得することにしました。その間、高校ラグビー部にコーチの勉強をさせていただいたり、トレーニングジムでアルバイトをしてトレーニングの勉強をさせていただいたりしました。次の年には大学ラグビー部でもコーチの勉強をさせていただき充実した日々を過ごすことができました。この間、目が覚めている間は、ずっと教員採用試験の勉強に費やしました。毎日が楽しかったです。何か目標があると本当に楽しくて、しかもそれが一般的には達成が不可能に近いとされているものの方が燃えます。とにかく途方もないものにチャレンジしたいという気持ちが私の根底にはあるようです。高校チームと関わるならばどこでもいいというわけではなく、すでに強いチームは魅力を感じませんでした。弱いチームであって、私が強くしてどんどん強くなってテッペンまでいくチームがいいと思いました。そう考えると候補は2つでした。大学附属高校にラグビー部を新設して強化していく、または、母校である高校を強化していく。前者は大学のサポートを受けて強化する、後者はOBや地域のサポートを受けて強化するというものでした。そこで私は後者の母校での指導を選び、教員採用試験を受けることにしました。この教員採用試験には一発で合格することになるのですが、その時私は悲しくなりました。教員採用試験の勉強はもうする必要は無くなったのです。「明日から一体何に没頭すればいいのだ」。

【初任校時代】
 教員採用試験には合格し県で採用になったものの、配属はK高校になりました。母校ではない高校に配属になったことはもちろん、K高校にラグビー部がないということにもガッカリしました。部活動の顧問は女子バスケットボール部になり、やる気のない日々を過ごしました。やらなければという責任感で何とか高校に足を運びましたが、どうしても学校の教員という仕事とバスケットボール部のコーチという活動にやりがいを感じることができません。自分で選んだ道なのにも関わらず、また間違いだったのかと感じ悔しくてどうしようもない日々を過ごしました。すぐに退職しようかとも思いました。私は高校ラグビーチームと関わりたかったのに、という思いが沸々と湧いてきます。高校ラグビーチームと関わるには高校教員になるしかない、そう思って教員になったのに本来の目的を果たせていない自分が情けなく涙が出て来ました。そんな悶々とした日々が続きましたが、少しずつ発想の転換をすることができました。「なんで自分がこんな高校に」という考えから「すぐに母校に転勤するからそれまでの我慢だ」と思うようになり、やがて「母校に転勤して爆発するための準備期間にしよう」という思考になっていきました。今のうちに担任業務、生徒指導、教科指導、部活動指導、保護者対応、行事運営など、多岐にわたる教員としての業務を覚えて、母校に転勤した時に誰よりもスピーディーにそれらの作業を遂行して、ラグビーに費やす時間を捻出しようと考えました。そしてラグビー指導のために肉体も技術も精神もお手本を見せる必要があると考え、体と心を鍛え始めました。

【母校時代】
 転勤になり、希望通りの母校になりました。近隣の高校と合併して名前が変化していました。転勤前は「自分が希望する高校になど行けるわけがない、県立の職員なのだから」と周囲から言われましたが、なぜか絶対に行けるだろうと自信がありました。その通りになったので、やはり思った通りになったなと思いました。部活動に行ってみると部員は10人ほどで今にも潰れそうでした。規律も乱れ、公式戦のジャージも無くしている状態でした。「さて、ではやりますか」という気持ちでスタートしました。早速公式戦ジャージのデザインを変えて一式揃え、ロゴマークや旗、Tシャツを作って今までの文化を刷新しました。部員も他の部活からスカウトして集め、試合ができる15人以上を確保できるようになりました。活動場所が散らかっていたので掃除を一緒にやり、時間がルーズだったのでタイマーをセットして時間に厳しくし、人が来たら挨拶をするなどの生活指導を徹底してやりました。なぜなら私の中では日本一のチームがそのようなイメージだったからです。ラグビーの技術を指導したところでそれは強さの50%にも満たないものです。50%以上は人格や行動様式にある、そのような確信がありました。したがって後者を指導する方が、日本一になるためには効率がいいと考えました。そのような生活指導と技術指導はどちらも重要だと思い取り組みました。そしてもう一つ重要なのが部員確保です。部員20人で全国制覇、それは無理だと考えました。日本一であるためには100人近い部員が必要だと思い多くの中学生チームにスカウトに回りました。さらに全国の日本一の指導者に会ってイメージを膨らませたいと思い、単独で様々な高校にお邪魔させていただきました。その結果、私自身のイメージも明確になり、生活指導、技術指導、部員確保が進んでいき、県ベスト4まで進むことができるようになりました。しかし、強豪校との差は歴然としていました。試合をしても100点差以上がつくのです。全国大会に行って日本一になりたい、そのために強豪校に勝ちたいのですが100点差以上の大きな力の差があります。普通のやり方では到底無理だと感じました。そこで、どうやって強豪校に勝とうかと思案して考えついたのが社会人ラグビーチームの創設です。社会人ラグビーチームを創設して、優秀なラグビー選手を集めて自らの練習と共に高校生への指導もしてもらうような仕組みを作ればチーム強化が進むのではないか。高校日本一になりたい、そのためのソフト面での改革が必要で社会人ラグビーチームを創設するに至ったのです。

【二刀流時代】
 地元の市役所も企業も、何か大きいことがしたいという気持ちがありました。では別々ではなく一緒にやったら絶対いいではないか、そう思いました。さっそく地元の市役所に社会人ラグビーチームの創設を相談しにいきました。行った先はスポーツ係ではなく、商工振興係です。地元の市は少子高齢化で若い働き手が少ないという課題を持ち、人口流出も発生し人口が激減している状況でした。そこで社会人ラグビーチームを創設し、市外から移住して来た選手は、地域に移住し、昼間は地域の職場で働き、夜に練習する形式をとることで地域に貢献できるのではないかと提案しました。そのような提案に市役所も賛成していただき、街をあげてのラグビーチームを立ち上げました。チーム、市、商工会、高校で協定を結び一体となってプロジェクトを進めていくことになり、チームの選手が高校生の指導をすることで高校生の実力は確実に向上していきました。その結果、確かにチームは強くなる兆しがあります。今までにない方法で高校ラグビーチームを強化しているという自負もあります。そして社会人ラグビーチームでも監督として活動しており、高校ラグビー監督とともに2足の草鞋で活動しています。これが正解なのか、自分のしたいことなのかわかりませんがとにかく時間の全てを分刻みで管理して動いています。私はラグビー宿舎に住んでおり、6時からの高校生朝食指導、7時からの高校生朝練習、16時からの高校生練習、19時からの社会人練習、21時の高校生点呼指導。土日はほとんど高校生の練習・試合か社会人の練習・試合があります。この方向性であっているのか。本当に時間を投入する価値はあるのか。今動きながらも考えているところです。自分自身の納得感があれば私は没頭して力を発揮することできます。高校生チームの指導と社会人チームの指導が自分自身にとってやりたいことであり、一方でなく両方であることに意味があるのだろうか。この辺の認知をきちんとしたいという思いがあります。

【現在】
 現在も高校教員です。業務としては授業等の普通の教員の他に、地域との共同事業や広報活動、生徒が盛り上がる行事の企画などを担当しています。こういった業務は素早くできますし、得意分野ではあるのですが、やりがいといった意味ではそこまでやりたいことではなく、責任としてやっているという状況です。高校ラグビーチームを強くするためには必要だからやっている、職場での私の信頼が部員やチーム全体への信頼に繋がるからやっているという状況です。しかしこれも自分が好きなことに気づいていないだけなのかもしれません。ラグビーとの関わりは、高校ラグビー部監督、プロラグビーチーム監督、県高校代表監督という3つのチームで監督をしています。スケジュール管理、練習内容選定、選手選定、スタッフ・選手とのコミュニケーションが主な活動内容です。高校生の宿泊所で共に生活していますので24時間体制でやりたいことにコミットできています。気掛かりなのは昼間の学校業務に携わっているところです。本当に心の底からやりたいことではないのに惰性で続けてしまっているという気持ちがあります。ただ教員を辞めてしまうと高校チームの指導ができないし日本一への挑戦ができなくなってしまうと考えています。もしかしたら高校生のクラブチームを創設して、そのチームが全国大会への出場を許可されれば、そういった道があるのかもしれないと思っているところです。また、何か途方もない挑戦がしたいという自分も気持ちがあり、何か魅力的な挑戦を見つけたときにはラグビーから離れて、ただ一心にその挑戦に没頭したいという思いがあります。そのような挑戦が何かないか、今探しているところです。探した結果、やはり高校ラグビー日本一かもしれないし別の何かかもしれない、しかし探し続けて挑戦し続けたいです。家庭もあるので週に1回は家に帰るようにしています。何かに365日24時間没頭していたいという気持ちと、子どもが3人いますので子どもたちに会いたいという思いもあります。自分でもおかしいと思います。子どもたちに会いたいという気持ちと何かに没頭したいという気持ちが葛藤するのです。とにかく何かに没頭したい。ここまで私の欲求に影響を与えるものは何なのか、そこまでして一体何がしたいというのか。それを見つけたいと思い続けています。果たしてどこに向かって進んで行きたいのか。「一体何に没頭すればいいのだろうか」。没頭するものが自分を自分らしくしてくれる。

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