この8月はきみに
過ぎ去った時間は取り戻せない。
記憶は手につかんだはずの砂みたいにいつのまにか零れ落ちていく。僕の指をすり抜けた砂が夏の太陽を反射した海に滑っていくのをただ見ていることが僕にできた唯一だった。
確かにあの夏の太陽は、月を焼いたのだ。
僕が美しかった思い出の残滓を薄く広げて幾度の夏をやり過ごすようになってから、随分と月日は経ってしまった。引き伸ばされた記憶はもう色さえ分からないほど薄くなって、近年の異常気象の暑さの下ではなお溶けていくように感じられた。
夏は嫌いだ。僕は呼吸を生きている証拠にしたくなくて、ふと息を止めてみたりする。でも結局苦しくなって、いつもより大げさに呼吸をしてより命を強く繋ぐのだ。そんなことを繰り返して、僕だけが生きているなような絶望を夏に探していた。
履き古したジーンズも踵が折れた靴もここにはもうないのに、傷ひとつない裸足で踏み出すことがどうしてもできないでいた。
弱虫な僕にはこの転げ落ちた坂道は到底登れそうもなかったし、途中で転んだらまた下まで落ちていくような気がしていたのだ。
やっぱり僕の心はあの夏に死んでいる
なんて、そんな風にばかり考えていた少し前の自分に自嘲する。
見上げた太陽が僕の肌を焼いて、暖かく湿った風が砂を揺らしていた。
そういえばあの時も誰かが、空へのぼる煙を見て、寄せては返す波のように思い出が蘇ると言った。それは半分嘘だよ、と僕は思う。
思い出は、浮き輪がいつの間にか波打ち際に返るように、下流にある石が丸いように、波に離した後いつの間にか砂浜に打ち上げられて、少し形を変えて僕の元に返ってくるのだ。
離しても離しても。
僕はそうして何度目かで諦めた。
悲しみだけは色褪せないでいて、そのくせに記憶は風に運ばれて遠く、僕の知らないところへ少しずつ飛んでいくのだ。悲しみという漠然とした暗闇だけを落として、記憶という月を奪った夜はひどく孤独だった。
そうして嫌ったはずの海に今、僕はいる。
何年振りかにきたこの海は変わらず控えめに波の音がなっていて想像よりも悪くないな、と素直に思えた。
砂浜に腰を下ろし、足を伸ばして後ろに手をついて全身で夏に触れる。
砂とあわさった素肌から太陽の温度を感じる。太陽が、左手の金属にはとりわけ熱を分け与えているような気がした。
「ほらまた、泣いてる」
愛しい人の声がする。
閉じていた目を開けると上からこちらを覗き込んでいた彼女が嬉しそうに、柔らかく微笑んでいた。
僕の頬をなぞる手にはめられた指輪が強く光を反射して、僕は再び目を閉じた。
彼女がまた海に向かって砂を踏む音がする。
「 」
風に溶かした言葉が君に聞こえたかは分からない。ただ、今ならこの熱を受け止められるような気がした。
あの時から始まって、また随分と時間をかけてしまった。
吐いた息が新月の夜の一部を白く染めた日。
忘れたくないのに日に日に思い出が消えていく自分が許せないと言った僕に、彼女は僕の吐く白が消えていくのを目で追いながらなんでもないように僕に言った。
「覚えてるから大丈夫だよ」と。
そんな事はない、忘れたくなくても思い出は薄れていくんだと言い募った僕の目を見て彼女は笑った。
「だってあなた、今、泣いてるもの」
頭で忘れても身体が覚えてるのよ、そう続けてすぐに彼女は今は見えない月を探すように暗闇に視線を移していた。
そうか、全部思い出せなくてもいいのか。
僕の身体がずっと、覚えている。
僕はこの時、白く吐いた息越しに初めて、彼女をまっすぐに見た。息を止めると白はすぐに消えたけれど、彼女はずっと、まっすぐに僕を見ていた。
あの冬の日からたぶん僕は少しずつ緩やかな一歩を踏み出して、それからずっと隣には何でもないように君がいる。
僕が過去に失った愛ごと抱き締める人。
思い出が流れても、返ってきても
ただ見つめている、海のような人。
太陽に焼かれても消えない海。
月を水面に映す海。
朝も昼も夜も、変わらない海。
少しひんやりとした風が吹いた。
「そろそろ帰ろうか」
足首まで海に浸かって夕陽をみていた彼女に声をかける。
膝丈のスカートがふんわりと舞った。
ずいぶん濡れちゃったといって笑う君に
タオルを取って来るよ、と僕は踵を返した。
「私も愛してる。また来年だね」
背中越しにそう聞こえた声が、少しだけ君に似ていた。
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