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役割からの解放は呼び名からー「お母さん」ではなく「みっちゃん」で呼ばせることの効果

朝の時間しか、自分の時間がない、と思い込むことによって仕事が溜まっていない日も朝4時起きであるが、疲れた状態が続いている。まだ火曜日。このままだ「ダラダラと早起き」を続けると、金曜日にはクタクタになることがわかっているのだが辞められない。

もう少し疲れを残さずに週末を迎えられたら、土曜日にも山登りやその他のアクションができるのにな。最近は、土曜日の朝はしっかり(7時ごろまで)寝てしまう。朝イチから予定を入れるのはなるべく日曜日。

そして先週の日曜日は、念願の雪山だった。わたしひとりで、山岳会の一行に交じっての三重県(滋賀県)県境の御池岳!

御池岳山頂

白い世界で、どの道を歩いてもケガをせずに歩けるフリーダムな感じ。歩くたびに足跡がついて、野生の動物の気分でした。その気持ちよさは、久しぶりにゆっくりと話した山岳会のおじさまたちとのやり取りでも感じたこと。

その一つ。13年くらいの細い付き合いになる山岳会なので、年を重ねている人は当然多い。その人たちと、年齢の話になった、わけではないのだが、年齢を聞かれたらこう答えているという話。「いくつ?と聞かれたら、72カラットって言ってるよ、最近」。

それはそれは!72カラットと言われると、想像もつかないがものすごく素晴らしくまぶしく感じる。実際、年を重ねるということはそれくらいの価値を持ってもよさそうなもの。表現の仕方でこんなに印象が違うものか、と思った出来事だった。

私が日常に取り入れている、「お母さんと呼ばせない」というのも似ているのではと思った。呼ばせない、というほど強く規制をしているわけではないが。「みっちゃんって呼んで」と数年前から言い始め、今では結構、真ん中の子(7歳)を中心に、みっちゃんと呼ばれている。もともと、夫は私をそう呼んでいることもあり。

何か要求されるときに「お母さん!!!」と言われるのと、「みっちゃん!!!」と言われるのではなぜか大きく違う。お母さん、お父さん、という役割で呼ぶことは、もしかして百害あって一利なしかもしれない、と思い始めている。お母さんとして、ではなく、同じ人間として、知っていることやできることは教えたり手伝ったりしたいけど、強要はされたくないのだ。映画「崖の上のポニョ」では、5歳の子が母のことを「リサ」と呼び捨てしていて、観た当時は違和感があったが、今は「全然オッケー」と感じる。

名前で呼んでもらう、の発端は、この記事にもある伊是名さんという女性のコラムを読んでから。新聞に、「今日はママではなく名前で呼んでね」という「お母さん休暇(?)」の話を書いていた。そーだそーだ!と思って。ちょうどお母さんを呼びたい盛りの次女から、わたしを「みっちゃん」と常時呼び始めてくれた。

呼び方ひとつでこんなにも印象が変わること、2つ。弁護士や医者でも「先生」と呼びたくない私には、より呼び方が大切なのかもしれない。次はいつ、山登りに行こうかな!

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