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9月になれば私は

父の葬儀が終わりお骨になった直後に、お世話になっているお寺さんにお礼参りに行く、という流れがある。これが一般的なことかわからないけど、ウチのほうではあるんだ。

なんか適当に今後の話を聞きながら、ご住職がおもむろに、これどうぞと箱を私たちに差し出した。ご住職の後継ぎ(ごとういん、と呼ぶらしい)が、地域振興にも厚い方で地元の子どもたちと作った数珠風ビーズブレスレットを売っている。多分その売れ残りなのだろう。地味な色や微妙なセンスの色合いのブレスレットが無造作に転がっていた。

私はというと、余ったビーズで作りましたという色合いのブレスレットに妙に惹かれてありがたくいただいた。

どうしても父が亡くなった実感が湧かずにいた。日常に戻ると、忘れていることに気付く自分がいる。忘れるの早すぎるだろ。薄情だねえ。

こんなことになってるのは、きっとコロナのせい。実家に思うように帰れなかった3年間。「コロナが憎い」と思っていたけど、コロナのおかげで父が存在しない日常を予行練習できていたのだ。

東京に戻って職場復帰すると、何事もなかったかのように時間が流れていく。でも確かに父はもうこの世にいないのだ。父が存在していた時間も父が存在しない時間も、東京にいる分にはなんの差もない。ハッと気付くと、まるで並行世界にでもいるようだと気持ち悪くなっていた。

忘れないために、この数珠風ブレスレットを付けていた。日常に戻ったけど、非日常を過ごしてきたことを忘れないように。

セレモニーホールの立派さに飲み込まれて、仮通夜の日もお通夜の日も泣けなかったこと、仮通夜の日に、次兄が酔っ払ってロウソクや線香が乗った台をひっくり返して眠りこけているのを見て、父が乗り移ったかのように怒鳴りつけたこと、最期に納棺師からキレイにしてもらった父はなんだか草彅剛に似てると思ったこと、絵画で見る殉教者みたいと眺めていたこと、葬儀の日は早く目が覚めて、落語や父が好きだった歌を棺の前で流したこと、

葬儀の終わりにやっと別れの実感が湧いたこと、火葬場に向かうために、立派なセレモニーホールから出るところから泣き始めて、長兄から「早いよ(火葬場で泣け)」とツッコまれたこと、

「やー父さんが焼かれるのを見たくないわ」と火葬場で口走ったこと、焼き場から控え室に着くまでの間に何度も振り返ったこと、お骨になった父に「さっきはごめん」と謝ったこと、2人の兄と私と甥っ子のみんなが正しく箸を持って、ガツガツ拾っていくのを見て「他人さまの箸の持ち方をどうこう言う時代ではないと思っているけど、箸の持ち方大事だ」と思ったこと、

次兄に「目が覚めたら15歳ぐらいに戻ってないかなあ、夢だといいなあ」と言ったら「母さん死ぬの、また見たくないわ」と返されたこと、次兄は私よりもずっと深いところで父母を大事にしていること、ああ、来世があるならまたこの家族がいいなあと、虫のいいことを考えていること、

坂口安吾の「戦争と一人の女」に出てくる、戦争が終わって「戦争をもっとしゃぶりつくせばよかった」と考えている男みたいだなあ、己の不幸にもっと翻弄されてもよかったのかもしれない、そこから逃げてきたくせに、そんなことを思っていること、でももう終わったのだと、

そんな諸々忘れたくないことを大切にしたくて過ごしていた。

その後もまあいろいろあって、セミとかバスケとか、母方のいとこと出会ったあたりでお腹いっぱいになったようで、四十九日まではと思っていたのになんかもう数珠ブレスレットが重たく感じられて、数日前から外して過ごしている。

2週間ぐらい前に叔母の家では思い出話をたくさん話し合ったその帰り道。車の中で長兄が少し大きめな声でボヤいた。「思い出話は頭が腐るなあ、もうこっちは前を向いて歩いているんだ」と、さっきまで楽しそうにしているようだったのに、まるで自分に言い聞かせるかのような大きめの声だった。

あのときはビックリしたけど、ようやく私もそのフェーズに来たようだ。長兄はいつも「ああ、その通りだな」ということしか言わない。

大丈夫、父さんのいない日常に慣れてきた。ちゃんと生きていくつもりだけど、なんだか死ぬのもそんなに怖いことではないような気もしてきた。いずれだれしも迎える死、身内を見送って心の準備をしていくものなのかもしれない。

これからも、私の人生は続く。

もうすぐ納骨。

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