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哲学は死に、将軍はヤギとなる

※この文章は映画「哀れなるものたち」を鑑賞後に書いたものです。


文学や哲学の世界に潜り込む時、僕はいつも、とんでもないくらいにわくわくする。だからこれまで、書店は僕にとって夢の世界でしか無かった。

きちんと並べられた背表紙は、僕に知的なハニー・トラップを絶え間なく仕掛け、考え抜かれた初めの一節は、僕を未知なる世界へと誘い、退屈な日常では味わえない興奮をもたらしてくれる。だから僕は、いつしかドラッグみたいに本を読むようになっていた。

何かのきっかけで心を病んだ時、疲れが溜まった時、僕はいつも活字に頼った。現実から目を背けたくなった時は、現実離れした哲学に触れた。

やるべき事が溜まっているとき、読書は良い口実になってくれた。知的な世界に潜り込むことは、いつだって僕をなんらかの達成感で満たしてくれたのだ。

そうして、僕の部屋の積読本はついに3桁の大台に乗った。

「読みきれていない本がある」という現実を忘れるために、僕は狂ったように本を買い揃えた。現実を見つめるための読書は、いつしか現実から離れるためのものになっていた。目の前に広がる確固とした現実は、僕にとって無味乾燥なものでしかなかったのだ。

しかし僕はふと思う。読書は、僕が現実を現実として受容し消化していくために、果たして本当に必要なんだろうか?
文学の高尚さや哲学の複雑な理論体系は、その華々しさの一方でひどく空虚である。雄弁な言説にできるのは、理想主義者たちの妄想癖を加速させることだけだ。現実にある問題には目も当てず、美しいだけの綺麗事をひたすらに並べるだけなのだ。

「良識ある社会」という空想の中で語られた理論は、おしなべて空虚なものでしかない。僕たち人類にできるのは、ただただ目の前の現実と向き合い、その都度的にリアルを構築していくことなのだ。

こうした世界ではもちろん、高尚な文学や難解な哲学などはとるに足らないものである。「哀れなるものたち」で展開されたエマ・ストーンの知的成長に違和感を抱いたのも、おそらくは哲学に対する僕の不信感に因るものなのだろう。
僕たちの現実を構成するのは、決して美しいものばかりではない。僕たちの小さな現実を形作るのは、もっと泥臭く、ひどく見どころのない種々の要素にすぎないのだ。このことに気づいた時、僕の中で哲学は死んだ。これは、保守的なプライドによって守られた僕の空想的現実を破壊し、現実的現実へと態度変換するための第一歩である。

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