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わたしとあなたと彼と彼女と

僕にはずっと、わからないことがある。
それは、他者とは本当に存在しているのだろうか、ということである。あまりにも人間で溢れた社会の中で、僕たちは毎日、数え切れないくらいの他者と関わっている。街を歩くとき、電車に乗るとき、バイトをしているとき、僕のことなんてさっぱり知らない彼らは、何食わぬ顔をして歩き、食事をし、言葉を発する。僕にはこの事実が、どうしようもなく恐ろしく思えてしまうことがある。というのも、これだけ多くのことを考え、数え切れないほど多くの生き物の命をいただき、信じられないくらいの量の酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出してきた僕のような人間が、この惑星には数十億も存在しているのだ。まるで意味がわからない。ちょっと怖すぎる。

僕には時々、僕以外の他者は皆、からっぽなんじゃないか、と思えてしまうことがある。そうでもないと全く理解できない。文章を書いている今も、このわからなさに吐き出しそうになる。ある種の嫌悪感が僕の身体にまで侵食してくる感覚。他者についてまともに考えようとする時、僕はいつもこんな感覚に襲われてしまう。

「君はもっと、自分がどこまでも大衆の一人であることに対して自覚的であるべきだ。」

2年前、ある人は僕にこう言った。
あの時はなんとなく腑に落ちたこの言葉も、今ここで他者のわからなさと対峙する時、全くもって意味がわからなくなってしまう。掴んだはずの意味は、僕の手からさらさらとこぼれ落ちていく。そもそも僕は、自分が誰かさえわからないのだ。そんな状態で、中身がぎっしり詰まった他者の存在など到底信じられるはずがない。

しかしそれでも、ちょっと冷静になれば、僕が「どこまでも大衆の一人」であることには納得いく。僕たちはこの世界に誕生した以上、社会と無縁ではいられない。アリストテレスは、「人間はポリス的動物である。」と言った。全くその通りだと思う。僕たちは皆、付与された社会という枠組みの中でしか存在を許されない。そしてその枠組みの中で皆、服を着たり、何かを思ったりしているのだ。この強固な枠組みがある以上、ある社会集団の中で似通った「大衆」が生まれてしまうことは避けられない。

なんとなく皆と同じような服を着て、なんとなく皆と同じような音楽を聴いている時、僕は自分がどこまでも大衆の一人であることを発見する。そして僕は、この避け難い事実に、ただただ絶望する。

「世界に一つだけの花」という曲が嫌いだった。どうせ皆同じだろう、と思っていたからだ。大衆の均質性を覆い隠すための綺麗事にすぎない、とまで思っていた。しかし、一世を風靡したこの曲に対する徹底的なまでの逆張りをする僕も、残念ながら大衆の一人に過ぎない。均質化に抗おうとする僕もまた、大衆の拡大に加担しているだけなのだ。僕たちは皆、ちっぽけな存在なのである。

しかしそれでも、暗雲立ち込めるこの絶望に、一筋の光を見出す瞬間がある。それは、他者がどこまでも僕と違うことに気づく時である。

一見しただけでは同質的な一個人である「あなた」と長い時間をかけて話す時、僕は「あなた」が自分とは全く違う人間であることに気づく。なんとなく同じような音楽を聴いて、同じような料理を好む「あなた」も、その根っこでは僕と全く違うことを考えているのだ。あるラインを超えることで炙り出される僕と「あなた」の圧倒的な異なり。僕は今、この事実がただただ嬉しい。

僕たちは確かに、ちっぽけな存在である。しかし僕たちは同時に、「世界に一つだけの花」でもある。そうだ。僕たちはどこまでも大衆の一人であって、どこまでもかけがえのない一人なのだ。この自己矛盾した存在こそが、僕たち人間なのである。それが良いことか悪いことかはとりあえず置いていく。今はただ、こうしたアンビバレントな存在として自らを了解しておく。

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