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ずっと真面目ぶっている

僕は最近までずっと、いや、今もかもしれないけれど、ずっと、ずっと真面目ぶって生きてきた。
お酒は20歳までただの一滴も飲まなかったし、学校をサボったこともなかったし、親が決めた門限をずっと守ってきたし、倒れた自転車は時間があれば元の位置に戻したりしていた。

真面目アピールをすることが生きがいみたいになっていた時期もあった。「20歳になるまでお酒は飲まない」というスタンスで飲み会を断るたびに、半ば優越感さえ感じていた。本を読み始めたのも、周りに真面目だと思われたかっただけだったのかもしれない。規則正しく、適度な趣味に囲まれた生活。それが画一的なものに過ぎないという事実には目を背け、ひたすら僕は、真面目であることを演じてきた。

けれど、もう、疲れた。
気を遣いすぎて、誰かといるだけで疲労が蓄積していく日々。SNSは、自分が真面目であることを証明するためのツールと成り果てた。頭がいいと思われたかった。賢くて気が遣える真面目な人間だと思われたかった。

真面目でありたかった僕は、必要以上に周りの目を気にして生きてきた。好きなタイプを聞かれた時も、趣味が何かを聞かれたときも、世間の評価を良い方向に形作るために、息を吐くように嘘をついた。いや、それも本当のところ嘘だったのかは分からない。本当にそう思って答えただけなのかもしれない。
というのも、僕の中にある「真面目」なペルソナは、僕の制御を離れ、しばしば僕を乗っ取ろうとするのである。時間をかけて僕の中に形成された「真面目」は、いつだって僕が真面目であることを強いる。だから時折、自分が本当に真面目であるかのような錯覚に陥ることがある。女遊びに明け暮れた同級生を心の底から軽蔑し、酒と煙草に支配された過去の友人を見て吐き気がした時は、ついにここまで来てしまったか、と思った。僕は、自分があまりにも真面目であろうとしたばかりに、自分にも他人にも気付かれないような自然な形で、あたかも本当に真面目であるかのように振る舞うことに成功していたのだ。

このようにして、僕はいつからか、真面目であることに囚われてしまった。そしていつからか、自分が分からなくなってしまっていた。真面目であろうとするたびに露呈する、自分の真面目じゃない部分。このギャップがしんどかった。じぶんを押し殺してまで、僕はひたすらに真面目であろうとしたのだ。だから僕はずっと、嘘をつくような感覚で生きている。

ある時、いい感じだった女の子に「嘘くさい」と言われたことがある。バレてしまった、と思った。希薄な関係性だったからこそ、その指摘は真実らしさをもって僕の心を抉ってみせた。

僕にはしばしば、自分が何を話しているのか分からなくなってしまう事がある。確かに僕の口から発せられたはずの言葉は、僕の目からも嘘みたいに見えてしまう。自分が本音を話しているのか、嘘をついてるのか分からなくなる感覚。僕はずっと、自分が誰なのか分からない。

最近、「変わったね」と言われることがある。けれどそれは違う。一緒にいる人間や環境が変わって、それにアジャストしているだけなのだ。だから別の環境にいる人間から見ると「変わった」ように見えるだけなのだ。そうだ、僕には一貫性なんてものがない。僕が「嘘くさい」と言われたのは、僕の中に確固たるアイデンティティが無いからだ。時間も場所も相手も選ばずにいつも同じような振る舞いができる人は、僕から最も遠い場所にいると言える。

「反・一貫性」という文章を書いたことがある。白でも黒でもない場所にいるものたちを愛そう、という内容のものだ。一貫性の外にあるものたち、常に揺れ動くものたちの美しさを書いた僕はしかし、ただ自分の曖昧さを正当化したかっただけなのかもしれない。そう考えてしまうと、自分が嫌になる。何者なのか分からない自分に対するモヤモヤは、ここまで言葉を連ねても何も解決しない。終わりの見えない自分への問いかけは、僕に息苦しさをもたらすだけだ。何者にもなれなかった僕は、太陽に照らされたこの惑星で窒息していく。これから先もきっと何にもなれないまま、ひたすらに死へと歩みを重ねるだけの生きた屍となるのだろう。

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