能力主義の問題点

 最近、岡田斗司夫という人の動画でサンデル教授の『実力も運のうち~能力主義は正義か?』という本の紹介・解説を見て感心した。私も今年の2月ぐらいに次のような文を書いていたので改めて紹介したい。
 ザックリ言って日本は明治以前の身分制社会から能力制(学歴)社会へと変化し、人は本人の能力、特に学校での成績によって判断されるようになった。成績の良い生徒は先生からの受けもよく、他の生徒たちからも尊敬されたりした。私の通っていた仙台の中学校はこの傾向が特に強かった。定期試験の成績は公表され順位が発表され、学級委員などの役職は成績の良い生徒が順番に就くのだった。人間の性格や人格も成績によって判断されたものだ。外見の良さ(かわいいとかイケメンとか)は考慮外であった。このような大人たちの価値評価の仕方は子供たちにも影響して、イケメンでも成績が良くないと女の子からはモテないのだった。
 現代の競争社会においては能力の低い人は劣等感を、高い人は優越感を持ちがちである。学歴コンプレックスも依然として強い。しかしこのような劣等感や優越感は本当はいわれのないものである。なぜかというと頭の良さやあるいは身体能力の良さも本人の責任ではないからである。もちろん本人の努力によるものも多いが、それよりもベースになる元々の能力は先天的なものであり、本人の努力にも限界があるからだ。ちょうど女性がいくらお化粧やメイクで顔を作り上げたところで、ベースの良し悪しは隠しようもなく、どうしようもないのと同じである。江戸時代までの旧社会においては家柄や身分が人の社会的地位を定めていたが、明治以降それが学歴にとって変わり、それでより公平な社会になったと思われているが、しかし能力自体も先天的なものであるから本当は依然として不公平な社会ではないだろうか。江戸時代においてはどの身分に生まれてくるかでその地位が決まり、人々は自分の地位を宿命として受け入れざるを得なかった。しかし、能力にしたところで同じことが言えるのだ。能力のある人間はなぜ自分が頭が良いのかわからないし、頭の悪い子供もなぜ自分がそうなのかはわからない。先天的に決まっているのは身分制社会の場合と同じではないか。いやむしろどうしようもないという点では能力の方が当てはまるのだ。能力は遺伝子的なもので文字通り宿命だ、しかし身分制は制度的なもので後天的だから変革することはより容易なはずである。したがって出来の良い子供を天才とか神童だとか呼んで彼らを特別扱いすることは変な話である。武家の家に生まれたから農民の子供より偉いなどとみなすのがおかしいのは今から見れば当たり前のことだが、それと同じで高い能力を持って生まれたからといって天才と呼んで特別扱いしたり、頭が悪いからといって馬鹿にするのはおかしいだろう。誰も好き好んでそのように生まれてきたわけではないからだ。持って生まれた能力に関しては本人に責任は全くないのだ。したがって、能力が劣っているからとかあるいは平凡であるからといって自分を卑下する必要は本当はないのだ。やがてこのことが当たり前に認識されるようになり、人々は全て他人を自分と優劣のつけられない同じ存在とみなすようになる時代が来るだろう。
 人間の生物学的特徴は遺伝子自体を自由に操作できない限り克服することはできない。やがてそうなると思われる。あと百年もすれば人間という生物学的存在から生物を超える存在へと移行することが現実味を帯びると考えられる。種から超種へ(ニーチェの表現)の移行である。

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