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真偽と正誤の扱い

「真偽」と「正誤」を同じものであるかのように扱ってしまうと世の中はとても住みにくいものとなります。事実と真実と読み替えてもよいかもしれません。

地球は丸いとか1 + 1 = 2であるといった科学や数学的なものごとは事実として「真偽」が明確です。一方で、わたしたちの身の回りの多くはひとそれぞれの判断によってさまざまに変化します。ある人にとっては猫はかわいいかもしれない、でも別の人にとっては恐怖の対象かもしれない。真実はひとそれぞれ「正しい」か「誤り」かは簡単には判断できません。それは立場や環境によって見え方が異なるからです。

ですから、「真偽」と「正誤」を混同し、あるあらゆる問題を二極に分類できると考えるとムリが生じます。そのような人が増えているように思いますが、そこには想像力や思いやりの欠如があるように思います。「真偽」の問題がはっきりと二極に分かれるのに対し、「正誤」の境界はグラデーションの中に溶け込むようにして存在しているのです。その曖昧さから目をそらしてしまうと、実体のない「正義」に対して自分にとって都合の悪いものに「悪」というレッテルを貼ることになってしまう。

だから、「正しさ」を語るのはできるだけ限定的な範囲で、できるだけ公の総意として語るのがよいのです。正義とは各個人が振りかざすものであってはならないとわたしは思う。「正しさ」などというものは時代によっても地域によっても扱う人々によっても変わりゆくものだから。常に「公」によって施行され、厳しく「公」に監視されつづける必要がある。正しさとは絶対真理ではなく、それは人々が心豊かに過ごすという目的のもと条件的に定義される「約束ごと」だと思うのです。

失敗していい社会、だれもが心豊かに暮らせる社会は、無秩序に正義を振りかざして個人が個人を互いに裁き合う社会からは生まれません。個人の振りかざす正義にこそ自己都合以外の正しさがないからです。

豊かな環境を育むために、わたしたち「個」にできることは、正義のヒーローになろうとすることではなく、その狭間で「誤/悪」に陥った人々をゆるやかに共生する社会に引き入れ「赦す」ことに徹することでしかないのです。

りなる



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