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一切皆苦

わたしがいなくなったとき、いっしょにその存在を失ってしまうものをふっと想像することがあります。密かに大事にしている庭の小石。ポケットに入った白い貝殻。どこか愛着ある笑顔にみえる自室の壁のシミ。。。わたしが亡くなった瞬間、それらはただの小石になり、ただのポケットのゴミになり、ただの汚れになってしまう。玄関先のたんぽぽ。あの日の夕暮れ。あの時のあの人のあの笑顔。それらは誰にも知られない世に存在しないものになってゆく。

庭の石ころが文字通り消えてしまうことはないだろうと思うヒトもいるかもしれません。でも、無形の感情や思い出だけでなく有形のモノであっても、わたしだけが認識しているわたしだけのものは、誰からも何モノからも認識されず触れられなくなったとき、いったい何をもって存在していると言えるのだろう?

わたしたちが普通そこに存在していると思っているモノは、反射によって投影された光を網膜が読み取った信号であったり、触れたときに感じる手の感触が神経を通って脳に伝達されたものであったり、はたまたモノや人との相互の関係性の内に現れた概念でしかありません。そしてそれらが記憶という形で残る波紋が、過去と今と未来を通して連続的に存在しているという時間の概念を生じさせている。そこに確かに存在しているという確証はどこにあるのだろう。

わたしが漠然と瞑想の中に感じるのは、存在とはモノとモノ、ヒトとヒトとの「関係性」の中にしか現れないということ。わたしがより多くから認知されればされるほど、わたしはより存在の信用度を深めます。母親のお腹から生まれた陣痛の痛みがあり、育てた思いがあり、大人になってより多くから認知されることで、わたしの存在度は増大していきます。わたしはわたしという自立した個スタンドアロンなノードによって定義される何かではなく、あなたという観測者を通して認知されることによって、わたしはよりわたしでありえる。量子物理の世界も身近な世界も深度の違いこそあれ、そのような成り立ちではないかと予感させられます。

この表現が理解しやすいかはわかりませんが、、、これはどこか仮想通貨の技術でよく耳にするブロックチェーンのようにも見えないだろうか。ブロックチェーンとはつまり無形のデジタルの空間に無数につらなるチェーンによって実体のない価値という概念を保証するしくみのことです。ブロックチェーンではもはや実データが保持された一端末には価値がありません。つながりこそがその本質だからです。この多重につながりあう相互認知の鎖によって、自我は虚の上に強い存在感を示すことができます。生とはこの鎖のネットワークからもたらされる記憶のフィードバックではないだろうか。これが自分というアイデンティティを再帰的に強烈に印象づけるのです。心とはこの概念上のアイデンティティに対する即時的な生体反応なのです。すると、存在の本質とはむしろその関係性というネットワークのほうにある。

存在の本質がつながりネットワークなら、死とは認知のつながりをつなぐノードの喪失でしかありません。死によってもともとそこにあった虚がむきだしになる喪失感を生むかもしれませんが、この喪失感という概念もまた同じく関係性によって築かれたどこまでも無限に続く虚の鎖です。

めい‐・する【瞑】① 目を閉じる。目をつぶる。また、ねむる。② 安らかに死ぬ。往生する。

精選版 日本国語大辞典

話が逸れます。辞書を引いてみたら瞑という漢字は死ぬことを意味するのだそうです。すると、瞑・想とは死を体現することなのかもしれない、などということを妄想する。わたしたちが生きてあらゆる体験を味わう活動はあるけれど、わたしたちが生きながらにして非存在を味わう体験はおそらく瞑想の内にしかない。存在とはなんだろう、この問に対する体験は死を想起する古の遺産テクニックが役に立つかもしれません。

われわれの存在とは確固とした実在などではなく、観測という行為によって成り立つ儚い刹那ではないかと仮定します。するとわたしがいなくなるとそのつながりを失ってしまうたったひとひらの欠片が儚くも愛おしく思えてくるのです。その関係性の中にこそわたしの生があるのですから。すると、この一瞬の中に精一杯であること意外に期待はなくなります。この世の一切は苦しみだというとき、それは文字通り苦しみに満ちているということではなく、この世の一切は関係性からくる虚であるということだとわたしは思うのです。生はvoidそのもの、それが「dukkah」の本質なら、存在とは心が虚のなかに映し出す意味の場(つながり)でしかありません。 「一切皆苦」とは、そのような世のことわりのことではないかと思うのです。

りなる



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