父の背中(物語)
幼少のある日、母とひどく喧嘩したわたしは家を飛び出した。
「じゃぁもう、出ていくから!」
そう言って、自分の存在を主張するかのように玄関の扉を勢いよく閉めた。
もう何十年も前のこと、何で喧嘩をしたのか、何が悪かったのか、結局、その原因さえ思い出せない。
小学にあがる前の子供にとって家を出たところでゆく宛もなく、ただ近くの大通りの脇に座って、目の前を右に左に走り去ってゆく車を数えていた。
日が暮れ始め、腹に据え兼ねた怒りは、次第に寂しさに変わっていった。
もう数えた車が何台だったかもわからなくなったころ、
突然父が現れた。
仕事の帰りにたまたま通りかかったのだろう。
様子をみて、いつもと違った状況を察したようだった。いきさつをわたしが言葉少なに語ったのかもしれない。
「そうか、じゃ、おれが代わりに謝ってやるから、帰ろう。」
そう言って、なんでもないことのように父は笑った。
「いやだ。」
ほんとうは帰りたかった。そのきっかけを作ってくれた父の言葉が嬉しかった。それでも、子供なりのちっぽけなプライドがそれを許さなかった。
すると、父はわたしの目の前に背中を向けてしゃがみこんだ。
「よし!家までおんぶしてってやる!」
その時みた父の背中は大きかった。頼もしかった。
子供は父親の背中を見て育つなんて言葉を聞くと、わたしが決まって思い出すのは、この時の父の背中だ。
もちろん、"父親の背中"っていうのは文字通りの背中ではなくて、言葉などかわさずとも振る舞いで人生を語るという比喩だということはわたしも承知している。それでもこの時の父の背中が、世間一般の "父の背中" とわたしの記憶の中のビジュアルとしての "父の背中" が重なるのである。
「・・・。」
わたしは嬉しかった。
ひとり寂しく車を数えていたさなかに突如現れた頼もしい背中がたぶん、言葉にならないほど嬉しかったんだと思う。
わたしは何も答えず、父の申し出を拒んだ。
*
人は他人に赦しを求めたり、赦しを与えたりもする。
自分は間違っていないという正義や信念、そこから生じる心の葛藤や怒りや不満。それらに呼応するかのように、赦しはどこからともなくやってくる。あの日の父の背中のように。
でも、最後に赦しをすくい上げるのは、自分の心なのだ。
もし、あのとき躊躇せずに、あの背中に飛び乗っていたら、、、
もし、心に湧き上がった喜びに正直になって、ちっぽけなプライドを消し去っていたら、、、
心をチクリとさすはじめての後悔とともに、"父の背中" は何十年もたったいまも、わたしの前から消えずに語りかけてくる。
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