見出し画像

サイトの「使い勝手」論争

先日、ニュースの特集を見た。

公共機関のつくるWebサイトはどこもわかりにくく使い物にならないってそんな話。確かに、最近のサイトは洗練されていて良いものがたくさんある。だから、わかりにくい一部のサイトを糾弾したくなる気持ちはとてもよくわかる。

うん。とってもよくわかるw

使い勝手の「良い」サイト

かと言って、使い勝手の良いサイトだとしてもパソコンが苦手な人たち(例えばある程度の年配の世代)にいっくら教えても使えるようにならない状況は今も昔もあまり変わらないんじゃないかと思ったりもする。その元凶を考えると、どのサイトも微妙に使い勝手が違っていて、ひとつひとつのサイトは使いやすくても「小さな覚えなければいけないこと」がネット全体にわたって積み上がっている。年々のその労力は返って増えているようにも思う。

結局使い勝手のよいサイトってなんだろう?

仕事でシステム要件定義をしていても同じようなことを思うのだけれど、システムによる環境改善は部分最適による端的な使いやすさのみでは実現しない。

使い勝手が「統一」されたサイト

たまにこんなことを考える。使い勝手が悪いサイトばかりだったとしても「覚えるパターンがひとつでよければ」どうだろう?ひとつのサイトを使いこなすことにかかる学習コストは増えるけど、結局使えるサイトの数は飛躍的に多くなる、、、かもしれない。

つまり全体設計っていうのはそういうことじゃなかったっけ?と思ったりもする。

使い勝手が悪いと批判するとき

ネットの使い勝手が悪いと批判するとき、その本質は個別サイトだけを見た個別最適の話でいいのだろうか?個別最適で技術革新を推し進める以前に、大きな何かを見逃している気がしてならない。

もちろん、使いやすいサイトで統一されるのが理想だけれどね。

どんな車も即座に運転できる

車の運転は複雑きわまりないけれど、丸いハンドルがあって、右のペダルがアクセルで、左のペダルがブレーキで、ギアにはリアとニュートラルとドライブがあるという基本要素はどの車であっても変わらない。だからどんな高級車でも、どんな車種でも、どんなメーカーでも選べるし、乗った瞬間に乗りこなせる自由がある。

もし、最新技術や最新機能ばかりに振り回されて、新車がでるたびにブレーキペダルの位置が変わったりしたらと思うとゾッとしないだろうか。

日本のIT業界は世界でも周回遅れ感がある。それはゼネコン型の産業構造を模したため優秀な能力は全体管理に回され、純粋な技術に対して能力を割いてこれなかったからだと言われている。それをネガティブに評価する声は当然あってもよいのだけれど、だからといって欧米型の産業構造が正解なのかといえばその答えは誰にもまだわからない。だからこそ、返ってより俯瞰した全体設計に日本型の独自路線が開けているようにも思う。

ITリテラシーを育むっていうのは、そういった複眼的な視点を持つことなんじゃないかと、サイトの使い勝手が悪い論争を見ていて思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?