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お布団からハッシュタグ - 最近考えている記事にならない記事

最近またパソコン作業しすぎまして、体に負荷がかかってた上に、こないだ庭の手入れで変な体制で掃除をしたもんだから、どうやら活動限界を越えてしまったよう。すっかり背中を痛めてしまいました。騙し騙し、お布団とお仕事をいったりきたり、という日々を過ごしております。。。

そんなこんなで、ぜんぜんnote更新できておりませんが、ぼんやりお布団で過ごしたり、本を読んだりしながらなんとなく考えていることがあったりします。noteに起こすまで至らないのですが、ここのnoterさんたちなら未完のままきっと行間を読んで、この先を考察してくれそうだなと思ったり、ご自身の記事で続きを補完してくれるのじゃないか。そんな風なことを思って、冒頭の書き出しだけを集めてみました。

その① #多様性と意味の深み

先日、メタ宗教なんて文脈で父とメールをしていたら、井筒俊彦さんという東洋思想の研究者の本を勧められて読んでみたんです。これ難しくってわたしにはたぶん6割くらいしか理解できてないと思うんですが、その中でも「多様性」というキーワードに触れていた部分が興味深かった。

多様性という言葉に対して、テーブルに並べた様々な「横並びの」種であると理解している人がほとんどだけども、そこには「縦の奥行き」もあるんだよと。例えば、「花」という単語。日本人が「花」っていうときと、砂漠地帯の人々が「花」って言うときではその背景にあるニュアンスは異なるでしょ。もちろん辞書の上では同じ意味だけれども、その奥にある「意味には深み」がある。宗教や思想など形而上の世界を語るときその深みは増していく。

そこから更に話は発展して、わたしたちが認識している世界の理、そして自己認識そのものすらコトバによって表現されるけれども、このコトバは無限の意味の深みの連関のなかに存在している。文字通りコトバが世界であり、世界がコトバなのだ。異文化間、宗派、もっといえば対個人でさえ本質的なコミュニケーションはそもそも可能なのか?辞書の上ではもちろん花には決まった意味しかないし、花 = flowerなどと他言語への翻訳も可能だけれど、それは表面的な対訳でしかない。そこに本来は無限の意味の深みが存在している。

「多様性」とは、横だけでなくそのような縦の無限の深みの中にある。

その② #評価とマネー

そろそろ人事評価の時期ですよね。現代社会における評価っていうのは、つまりマネーと表裏だという話。

最近、経営を可視化するなんていって、さまざまな活動を額面にして表現するビジネスリーダーは多い。プロジェクトでも要求をタスクに分解し、そこにかかる人的リソースとスケジュールをかけ合わせることで、あらゆる事象をコスト化できる(と言われている)。

これみんな当たり前だと思っているけど、「実態」と「額面」の間に本質的な結びつきの根拠はない。そもそも時給1000円の根拠ってなんだろう。1万円の商品の根拠はなんだろう。

実態と額面がダイレクトに紐づくものなど世の中にはありません。実態と実態のない額面(マネー)をつなぐもの、その根拠こそが「評価」です。だから、意図するしないに関わらず、マネーには必ずその裏に「評価」が隠れています。そして評価の裏にはマネーが追従しています。経営であれ、マーケティングであれ、人事評価であれ。実態→評価→マネーの関連でワンセット。

ですから、可視化するといっても額面換算するには、まずはそれ以前に「評価」が真理であるかの洞察が本来は必要なはずです。ところが、その評価そのものの真偽に注意を払う人は少ない。

というよりも、不毛なのかもしれません。人が下す「評価」は主観的にならざるを得ないので、万人にとって適切な評価などと言うものは永遠に存在しない、とわたしは思います。問題は「適切な評価など存在しない」にも関わらず、実態をマネーに変換することによってあらゆる課題を可視化することができる、という思考自体にある。

すべての事物を一元化した単位に置換できるなんてパワフルな思想ではあるし、ある局面では非常に便利な思考ツールだけれど、そもそも片手落ちな概念だと言うことを念頭においとかなきゃなんだと思ったりする。。。

その③ #持続可能性と経営黒字

ここ最近、持続可能性を語るとき、収支が黒字化することこそ健全な組織のあり方だとの主張をよく耳にするようになりました。そして、あらゆる局面で理念よりも経営手腕が問われたりするのだ。

すると、極端な考え方をすれば「持続可能な社会」とは全ての組織が緩やかな黒字化が実現されている無駄のない豊かな社会だ、と言うことになるのだろうか?

そう考えたとき、全ての組織が黒字の健全な社会とは、いったいどんな世界だろうと想像する。そもそも実現可能なのだろうか?

誰かの黒字は誰かの赤字。同様に、誰かの赤字は誰かの黒字。この収支は必ず一致する。例えば、10人で構成される自立した村があったとして、うち一人一人が10万円ずつ手元に持っていて(村にあるお金は合計100万円)数ヶ月を過ごす。持続可能な活動を繰り返すことでみんなの黒字化が実現し、期末にはみんなの手元におよそ11万円が残る(合計110万円に増える!?)。。。なんてことが、あり得るのだろうか?

これが不可能だというのなら、わたしたちの目指す持続可能性は実現不可能な世界線にあるのではないか。

その④ #経済民主主義

本当に民主主義化されなければならないのは政治でも地域社会でもなく経済活動。

その⑤ #指数関数的な思考

こないだ発明家のカーツワイル氏のインタビュー本で「指数関数的な思考」が大事と言う話を聞いて、なるほどなと思った話。

わたしたちの住む現実世界は、1、2、3…といった線形の進展をする。例えば、10メートル進むのに1分かかる亀が100メートル進むのにかかる時間は1分 x 10 = 10分であるという単純な思考が成り立つ。わたしたちの直感はその直線的な考えに左右されることが多い。

ところが、情報社会というのはそうではなくて、指数関数的に進んでいく。人ゲノムの解析を1%進めるのに1年かかった。これを直線的な考えをしてしまうと、すべての解析を終えるには100年かかるという感覚に陥ってしまう。ところが指数関数的に捉えるなら、1、2、4、8…と進んでいく。既に1%終わってるならそれをあと7回繰り返せばよい。研究はあと7年で終わるだろうと(実際その通りになった)。

わたしたちの社会も、情報社会化されていて、さまざまなものがひょっとすると指数関数的に変化している。すると、それに合わせてわたしたちの意識も指数関数的思考にアップデートしなければならないのかもしれない。

数年前にハーバード大のチェノウェス教授が「3.5%の人が変われば社会は変わる」(3.5%の法則)みたいなことを言って驚きと共に話題になったけれど、これも指数関数的に思考すれば受け取る印象が変わる。このような直感を育むことがきっと大事になってくる。

言われてみれば、システム導入でもこのような奇妙な感覚に陥ることがしばしばあった。最新の技術を取り入れたにも関わらず、あっという間に陳腐化してしまったり。。。学習コストをかけて最新の技術を習得したにも関わらず、少し時期を伺って1年待って技術が成熟してから学習した後輩に、あっという間に追い抜かれてしまったことなどもあった。情報技術の指数関数的進捗とわたしのなかの直線的思考のギャップが生んだ悲劇だ。

ただし、同時に直線的思考が疎かになってもいけない。どれだけ世界が情報化しようと、そこに暮らす人間の営みの現実は決して損なわれない。人間の実態を伴う活動と、情報社会の進展のギャップを俯瞰し、適切に運用できる感覚が重宝されるのかもしれない。

その⑥ #2023こんなものを使い続けている

2023買ってよかったもの、なんてハッシュタグが今年も始まりましたね!わたしも参加しようかと思ったのですが、つい最近noteの記事を読んでいて、資本主義ど真ん中のクソ企画に乗っかってやろうじゃないか、みたいな過激な発言に不覚にも爆笑してしまいましたww や、まー、その通りだなと。

そこで、「おすすめ商品」ってのはあっていいんだけど、これいいよ!じゃなくて、使うのには「これで十分だよ」とか、これ実はわたし小学校の頃から「ずっと使ってるんだ!」みたいな意味での、2023わたしのおすすめ的な記事を書いてみたらどうかと、、、何を紹介できるか悩んでいます。


スマホで書いたので、読みにくかったり中途半端感あったらスミマセン。なんかほんとにざっくりと記事にしてみました。

りなる



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