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幸せでありたいと願うその前に

人は誰しも例外なく幸せを求める。だから、それこそが真理なのではないか、と「幸せ」の在り方を追い求めたこともある。でも一方で、それはひょっとするともっと原理的な生物の有り様なだけかもしれない。人はみな例外なく生物であるのだから。わたしはむしろ後者ではないかとこのところ思う。

もし、「あなた」がいなかったら、わたしは「わたし」を認識できない。わたしは「わたしでないもの」によってはじめてわたしでありえるのだから。全てを包括する全体性の中に自我は消えてしまう。だから、「わたし」の幸せを願うことができるあいだは幸せは訪れない。なぜなら、それは「わたし(自我)」によって想起されるのだから、蜃気楼によって映し出されるオアシスを追い求めるラクダのよう。そこにない「わたし」の幸せを求め、生き、願い、そして不安になる。どこまでも意味を与えているのは「わたし」という主観。その主観を通して感じる生物としての生理的な反応を「快」か「不快」として感知している。

死とはなんだろう?生とはなんだろう?人は死に向かって生きている。そして、生きている間、幸せであろうとする。到達することのない「わたし」を追い求めながら、確実にやってくる死から目を逸らそうとする。

自分の心に従いなさいという言葉。これはある意味正しくもあり間違ってもいる。心とは自分と世界をつなぐバロメーターのようなもの。そして、自分と他者とは、そのつながりにおける見え方の側面にすぎない。他者との相対的な関係性によってのみ自己が成り立つのだから。絶対的な自分が成り立つとき、それそのものが認識の概念から消えてしまう。

生命とは、生きるとは、その自我の継続プロセスにすぎない。生きている限りあなたはあなたを維持するために働き続ける。幸せはその相対性に存在している空虚なんだ。

求めるべくは、その存在そのものの嬉々とした喜び。快・不快をありのまま味わう祝福なのではないだろうか。

相対的にうつろう世界の中に生きているとき、目先の自己保管に目が奪われてしまう。そして、心はそれを繊細に映し出す。だから、心の声を聴きなさい。心にただ盲目に従うのでなく、よく耳をすませること。あなたがどれだけ空虚な世界に浮かぶ存在であるか気づかせてくれる。

幸せを求めるその前に、あなたはすでに喜びに満たされているのだから。

りなる



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