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愛を語るとき

愛ってなんやろう。。。随分仰々しい言葉やと思ったりする。

小さい頃「好き」と「愛」の違いを語ってくれた人がいた。

好きというのは、人の好意的な感情を言う。その一方で愛っていうんは無償なのだと、相手を嫌いであろうと好きであろうと、愛は無償なのだと。

その時は、なるほど愛っていうのは、とっても深くとっても神聖な感情なのだといたく納得した。

あれから何年もたった今、町には「愛」という言葉が溢れかえっている。

そしていつも思うんだ。愛が無償なのだとしたら、それは分け隔てがないということ。愛は「誰」に対しても「何」に対しても「どう」あっても、至極まっすぐで平らに平等で、そしてまったくに同じでなければならない。

それはつまり均一な空気。何者にも特別がなく無色透明で無味。いたって味気のない、味のぬけたスルメのようなもじゃないのか。

神聖な平等とはそういうものだ。

わたしたちの実感を伴って、明らかに存在するものはむしろ「好き」という感情だけなんだ。

ところが、町に溢れている「愛」には、どこか "特別" の匂いがする。誰かが愛を語る時、それは好きという感情に "特別" な意味を付与する時。

愛国心、愛は地球を救う、家族愛、恋愛、、、人はこうあるべきだ、人道とはこうあるべきだ、倫理、道徳、常識、あるべき愛のカタチを語る時、それは愛でない憎しみを生む。

神聖な平等とは真逆の意味を持つ。

愛なんてないんだよ。それはただ生きとし生けるものにまんべんなく降り注ぐ、無色透明な空虚なのだから。

りなる



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