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美醜ありのままを捉えたとたんそれはただの存在になる

混沌や無秩序を「美しい」と感じること。戦争、争い、貧困、競争はその卑劣さ・醜さゆえに慈しみが内在すると感じることがないだろうか。秩序にはその観念の中に混沌が同居する。その真理にてらせばそこに大きな違いはないのかもしれない。愛とは憎しみの表現であって、怨みはまた慈しみを彩る色彩。全てはそれが体験しうる限りにおいて甘く愛おしい。

人が認識できるものには全て相対する「つい」がある。もし、人に右手がなかったら左手は存在できるのだろうか。「右」手がなければ、「左」手はただの手になってしまう。左右とは左に対して右があるからこそ成り立つのだから。もし、この世に男がいなかったら、女は女であることができるだろうか。その片割れがなくなったとたん性別という概念がなくなってしまうのだから。もし、世の中の色という色が全て白であったら、白は白でいられない。そこに確かに白はあるけれど色という概念がなくなってしまうのだから。

わたしたちが日常認識しているものには全て「相対」があります。何ものも「それそのもの」として認識できません。わたしたちは世界をこのような二元性のゆらぎによってはじめて認識する。存在は、ただそこに「在る」ことでしかありえない。だからその一元的な世界にわたしたちの認識がとどまることはできない。

するとそこにまた葛藤が起こる。多くの政治家や聖人たちは善によって善を表現しようとする。芸術家は美によって美を表現しようとする。美とは「醜くない」ことでなく「美しくある」ことでもなく、美そのもの。ところが、影なくして光が認識できないように、美醜ありのままを捉えたとたんそれは美でも醜でもないただの存在になる。言葉の二元性から離れない限り真の美を知ることはできない。しかし、それを棄てたとたん認識の概念を超えてしまう。

マインドではなくハートで存在を捉えるとき世界はありのまま美しい。

りなる



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