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あるがままに咲く花のように

あるがままとか、自分らしく、みたいなこと。今日は、もうちょっと考察しようと思っています。

「あるがまま」というとき、多くの人は「自分」と「世界」とをその自然のありようから二分して考えてしまう。自分って、つきつめると「自」然から己を「分」割したときにはじめて認識されえるものだから、二分するという行為はある意味当然のことかもしれない。でも、それは文字通りあるがままの本質をとりこぼしているように思うことがある。

あるがままの自分

あるがままの「自分」を強調するとき、「自分らしさ」を貫こうとするあまり、外の世界とのギャップを感じる。自分らしく生きようとするほど、社会はそれを許してくれないように感じてしまう。そうやって社会と自分とをますます分離してしまう。歌を歌うことが好き、でも、歌を歌って稼げる人はほんの一握り、わたしがわたしらしく生きるために個性的であるほどに社会ではとても辛く感じられる。

すると、自分を取り巻く世界を変えようと努力することになる。原因を探り結果を変えようとする。たくさんのお金を稼ぐことや、権力、地位などを得ることによって、自分の「自由」を手に入れようとする。そうやって権威的な強者になろうと邁進することになる。

あるがままの世界

あるがままの「世界」を強調するとき、「世界のありよう」を貫くために、自分らしさと世界との間にギャップを感じるようになる。ありのままの世界を受け入れようとすればするほど、自分らしく生きることが難しくなってゆくでしょう。自分がどうあろうとも世界はありのままそこに遍在しているのだから、ただ静かにそれを受け入れればよい、と言ったように。

すると、次に自分を変えようと努力することになる。ありのままの世界の成り行きにまかせ、明日は明日の風が吹くとうそぶく。何事も成さずに時だけが過ぎ、ときに自分の才能のなさに絶望し、やがて自分らしくあることを諦めてしまう。そうやって退廃的な思想に陥ってゆくことになる。

あるがままの自然

あるがままってなんだろう?自分らしくあるために、「できることをしよう」なんて言葉が世間には溢れている。自分らしい自由を得るために、自分らしくないマーケティングをしながら、自分らしさを商品化し、稼ぎ、地位を得ようとする。それは、ほんとうに自分らしさなのだろうか。その一方で、あるがままの「自然」にそった生き方と言いながら、禁欲的に生き、灰色の人生を歩むことは聖者のふるまいなのだろうか。あるがままの自然というとき、そこにはまるで自分が含まれていないかのようだ。

ギャップを埋めるための方便を止めなさい。ときとして、行動することよりも、「しない」ことがよほど本質的であるのだから。

世界がどうあろうと、花は咲くべきときに咲くもの。泥沼にあっても、蓮はただ咲くし、誰からも見られない山奥であっても、桜は咲く。

世界は泥沼かもしれない。それでも、そこに咲くあらゆる花や草木、菌類、虫にすらもリスペクトの意識をもとう。あなたに害をもたらすかもしれない害虫であっても、彼らの「らしさ」をあるがままにみとめよう。どうしても、みとめられないときには、彼ら一つ一つの個に向かい、わがことのように洞察しよう。すると、その必然性が自ずと明らかになるから。そして同時に、それらがどうであっても、あなたもまた、ただ咲かなければならない。”やりたいこと” をやって、”やりたくないこと” をやらないことが「自分らしさ」ではない。自分らしさとは、あなたがなすべきことをし、なすべからざることをしないとき開花する。

あるがままの美

世界を憂い、よくしたいと願うなら、よく学び、そのように語り、そのように振る舞えばよい。世界なんて変わっても変わらなくってもよいんだ。どのみちわたしたちにできることなどそうないのだから。それでも、たゆまぬその努力が想い描く至高の姿であるなら、歩みを止めてはいけない。その代わり、あなたが駆り立てられている”今できること”という目先の習慣を止めてみるといい。あるがままに咲く花のように、ただ美しく。

りなる


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