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おかえりなさい、礼さん

 ずっと。
 ずっと怖くて書けなかったことがある。
 宝塚星組トップスター、礼真琴さんのことである。

 昨年8月、礼真琴さんが休演し、わずか数日で舞台に復帰した。
 彼女が復帰した翌日は私の唯一の「1789」観劇日だった。

 漏れ伝わる状況から、彼女が万全の体制ではないことは想像に難くなく。
 普段の彼女の舞台ならば、何を考えるでもなくただただ物語の世界に没入するだけなのだが、この日ばかりは「何事も起きませんように」と、祈るような気持ちで舞台を観ることになった。
 あの日、私が見ていたのは物語の主人公ロナンではなく、礼真琴だった。
 これは彼女がロナンたり得なかったというよりも、礼真琴という俳優のファンである私の気持ちが著しくフラットではなかったが故に起きたことだった。

 もっとも、彼女はプロであり。
 セーブしながらでもこれだけのパフォーマンスをこなすのかと感嘆するシーンも多く、観劇に耐えられるだけのパフォーマンスでもあった。
 ただ、彼女に対し「万全ではない」というフィルターを私が持っていたからかもしれないが、これまで観てきた礼真琴とは異なる人だったように見えた。歌唱量が多い演目において、自分のエネルギーをどこに使うかをしっかり調整しているような慎重さを感じたのだ。

 そして、休養明けの礼さんを私が観たのは最後の観劇から7か月が経過した、3月半ばのことであった。
 余談だが、公演の当日中止や既報の事件のこともあり、結果的に宝塚自体からも足が遠のいており。結果的に宝塚観劇も7か月ぶりだった。そもそもの問題として「宝塚歌劇を楽しく見ることができるのだろうか」そんな思いもあった。
 8月のあの日同様、いや、二重、三重の意味で、客席でドキドキが止まらなかった。

 礼さんの魅力は色々な言葉で語られているが、歌唱については純粋に歌が上手いということに集約されがちだと思っている。
 だが、その真骨頂は役として心情を投影する芝居としての歌唱、すなわち芝居歌にある。
 確固たる歌唱技術が芝居、そしてその瞬間の彼女の感情が結合した時、に科学反応が起きる。
 彼女が歌というツールを使い、役の感情の堰を切る瞬間、劇場の空気を瞬時に一変させられるところが「礼真琴」というミュージカル俳優の大きな魅力のひとつであり、強みだと私は思っている。

 だが、その片鱗を「RRR」最初の観劇で見出すことはできなかった。
 今までとは違った大らかなオーラのようなものは感じられたが、芝居歌は「何かが」違っていた。

 歌は変わらず上手いし、声には艶が戻っていた。休養前、特定の振付で股関節の動きを気にしているのかなと思っていたところもスムーズになっていた。
 元々繊細だった芝居や動作についても、さらに仔細に至るまで神経が行き届いていることには、瞠目するばかりだった。
 ただ、彼女の芝居歌で感情を揺さぶられることを知ってしまった私にとっては物足りなさを覚えるものであり、本来の礼真琴には見えなかった。

 2回目の観劇においても、その印象が大きく変わることはなかった。
 これが新しい「礼真琴」のステージスタイルなのかもしれないー
 そう思いながら観ていた。

 だから、とても嬉しかったのだ。
 4月に入り、礼さんが役としてその時心で感じたものを歌にぶつける歌唱を再開したことがー
 あの芝居歌が復活の兆しを見せたことで、心にさざなみが押し寄せた。隣にいた友人と「明らかに前回(3月)とは違う」そう言いあった。

 そして、千穐楽を翌日に控えた今日ー

 「RRR」のビームの歌唱面における最大の見せ場「コムラム・ビーム」で、ついにその瞬間は来た。
 歌唱の第一声で、心に衝撃と体に震えがきた次の瞬間、涙腺が崩壊するに至った。

 3ヶ月にわたる長丁場の公演を完走するために、彼女がいかに高いレベルのパフォーマンスを継続することに腐心していたのかを見たかのような気持ちに襲われた。
 芝居と歌が密接であるが故に、意識的にセーブしなければ無意識に全力以上で歌ってしまうのだろう。

 無理は決してしてして欲しくない。
 ただ、今日の礼さんのパフォーマンスは繊細さを増した芝居、異なるオーラ(それは凄みのようなものなのだが)を纏った「礼真琴」が新たなレベルに足を踏み入れたものだったと思う。

 貴女の帰還を待っていました。

 ようやく、心から言うことができる。

 「おかえりなさい、礼さん」

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