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乗馬と俺とオグリ1着

 1990年12月23日。有馬記念。
 言わずと知れた名馬中の名馬・オグリキャップのラストランだ。

 「オグリ1着! オグリ1着!」
 という名実況と共に、同馬が伝説となったその時。
 
 僕は、生涯初めてのレース予想を見事に的中させていた。

 もっとも、当時の僕は16歳の高校生。当然ながら馬券とは無関係である。父親に「お前はどの馬が来ると思う?」と意見を求められたから「オグリキャップ」と答えただけ。父子ともども法に触れるような真似は一切していないのでご安心いただきたい。その年はクリスマスプレゼントと別に謎の小遣いをもらったことは確かだけど、これくらいは無罪シロ……いや、黒寄りのグレーだろうか?
 まあ、なにぶんオグリも芦毛グレーなので。時間とともに真っ白になるということで、時効そして無罪と見ていただきたい。

 
         ○
 

 その何日か前。
 父子でレースの予想に興じていた時のことは、よく憶えている。

「オグリか……。来るかねぇ」

 オグリが勝つと即答・断言した僕に対し、親父はスポーツ紙を手に半笑いでそう返してきた。同馬の絶頂期は明らかに過ぎているとか、その証拠となる直近のレースでの低迷ぶり、そして、事前の単勝人気(想定オッズ?)も5番か6番程度に留まっていることについても説明されたはず。
 今にして思えばツッコミどころ満載である。ぶっちゃけ発端は親父の気まぐれで、自力でレース展開が読み切れないからイチかバチかで息子の言う通り買ってみるかというノリなのにさ。そこまで言うならオグリを外して自分の判断で馬券買えば良かったじゃんね?

「まあ、最後は父さんの好きにすればいいけどさ。自分で買うならオグリは外さないね。絶対」

 その時、僕は硬く信じていたのだ。
 オグリキャップという馬は、自らを取り巻く状況を理解していると。
 ここ最近、負けが続いていること。陣営や騎手をはじめとする周囲の焦りや落胆。そして恐らく、次のレースを最後に自身の引退が決まっていることすらも察している。だから次は本気で走る。死力を尽くして全力で走る。そして勝つ。絶対に。

 結局、親父は僕の意見通りにオグリを本命に定め、枠連の馬券をいくつか買うことになるのだけれど。

「ホント、お前はそういうヽヽヽヽところヽヽヽがあるよな」

 その時の親父の言葉は、息子の優しさヽヽヽに賭けてみるか、と、そういうニュアンスだった。

 
         ○
 

 田舎で生まれ、田舎で育った人間は、常に山や川や海と関わり合いながら生きている。だから嫌でも思い知る。自然の力を。圧倒的な強さを。容赦の無さを。そして、自分たち人間の無力さと小ささを。
 すると、人間の感覚というものは、自分ヽヽたちヽヽそれ以外ヽヽヽヽいのちヽヽヽ間へヽヽ明確なヽヽヽ一線ヽヽ引くヽヽようになるものらしい。
 これは、愛玩用ペットを基準に自然と動植物を捉え、いのちヽヽヽ差はヽヽないヽヽなどと語りがちな都会人との大きな差だと、僕は今でも勝手に思っている。

 有り体に言えば、田舎の人間にとって、自分自身と生活を守るために、あるいは娯楽などのために、他のいのちヽヽヽを利用したり奪ったりするのは至極当然のことなのだ。
 たとえば田畑を荒らす猪を駆除するとき、そこに憐憫の情だの動物の権利アニマルライツだのが入り込む隙間は1ミリもない。それどころか、親を喪って右も左もわからない子猪うりぼうを捕まえ、いい餌を与えながらベッタベタに懐くまで飼い、大きくなったところできっちりシメてぼたん鍋に舌鼓を打つくらいは余裕で日常のうちなのである。少なくとも永元家ではそうだった。

 そんなの残酷だ、と思うだろうか。

 大変申し訳ないが、それこそが自然から切り離された安全な都市部で生きることで歪んでしまった人間の発想なのだと僕は思う。子猪うりぼうを育てて食うことは本質的に養豚と何も変わらない。常日頃トンカツや生姜焼きを口にしている上で残酷だと言うなら、豚をシメるという“残酷な行為”を他人に肩代わりさせている自覚もないだけよけいにタチが悪いかもしれないよ?
 それにだ。
 もし仮に、野生動物に人間のそれと同じような生存権を認めることが「当然」と見做され、はたまた「可哀相だから」と肩入れする人間が圧倒的多数になって、狩猟やそれに類する行為の一切が禁止されたとしよう。すると、人間という敵から解放された動物たちは本能の命ずるままじゃんじゃん交尾して際限なく数を増やしていくだけなのだ。猪や猿や鹿や熊が互いに申し合わせて「僕たちはこれくらいでいいよ」だの「うまくバランスを取ろうね」だのと取り決めを交わすことなど絶対にない。当然だよね動物なんだもん生態系だの多様性だの知ったことじゃないよな。奴らは所構わず糞尿を垂れ流し、沢を汚し、木の芽を食い尽くし、野山を荒れ地に変えていく。そこに天然記念物や絶滅危惧種があろうがお構いなしだ。そして最後は飢えて血走った目で人里に降りてきて、弱い子供を真っ先に襲う。行き着くところまで行けば必ずそうなる。

 自然の一部として生きるというのは、他のヽヽいのちヽヽヽ戦うことヽヽヽヽでもある。
 人間だってもともとは自然の一部。世界の支配者として神様に約束されて生まれてきたわけでも、万物の霊長とおごれるほど絶対的優位にあるわけでもない。故に、他のいのちヽヽヽとぶつかり合う時が必ず来る。我々に備わった狩猟本能、雑食性で食肉の習慣を持つこと、集団で家や集落を作ろうとする習性も含めて、地球という超巨大なシステムの一部、逃げられない宿命なのだ。本当はね。

 問題なのは、高値で売れる象牙欲しさに象を乱獲するとか、経済的利潤を求めるあまり土地が回復するサイクルを無視した焼畑農業を続けるとかそういうヤツでさ。本来は人間の中でしか通用しない共同幻想であるカネの流れを絶対的基準にして生きていくこと、つまりは自然を無視した都会の論理全ての歪みの元だと思うのよ。
 ほら、ラピュタでもさ、人は土から離れて生きていけないってシータが言ってたじゃん? つまりはアレよ。同じことよ。

 まあ、これらは一種の極論だという自覚はあります。

 
         ○
 

 とにかく。
 田舎で生まれて田舎で育ち、その手で魚を捌き鶏をシメて猪を解体してきたうちの親父からすれば、オグリをあたかもヒトのように見做みなした息子の物言いは幻想ファンタジーそのもの。もう童話メルヘンの世界だと感じていたはずなのだ。
 16歳の高校生、身体はすっかり大人になったが、心はまだ子供だな、可愛いやつめ、という思いも少なからずあったのではないかしらん。

 でも、僕が馬に対して、人間の事情を察するくらいには賢いはずだと考えていたのには、実体験に根ざした根拠があった。

 
         ○
 

 僕が無事に受験シーズンを乗り越え、中学生から高校生へクラスチェンジすることが確定した15歳の春休み。
 永元家は、北海道への家族旅行に出かけることになった。
 この頃には祖父は他界しており、永元家の生業なりわいは親父の手がける飲食業が主軸になっていた。厳密に言うと親父は町議会議員として地方行政に関わりはじめていたので半分くらい政治家だったのだが、そっちのほうの収入は大したことなかったはず。なんか悪いことしてなければ。
 で、客商売とか自営業をやってる家はみんな同じだと思うんだけども、子供の長期休暇にあわせて遠出することがほぼ不可能なのね。特に夏休みやお盆のシーズンの遠出なんて絶望的ですよ。そこが通年で見た商売の最盛期、まさに書き入れ時だから。
 なので、息子の高校進学に合わせたこの家族旅行は、各方面を調整(主に旅費の工面)をしてようやく実現したもの。永元家にとっては数年に一度あるかないかのビッグイベントだったのだ。

 しかもね。北海道よ。北海道。
 まだ雪がある頃の北国なのよ。

 なんせおれっち四国生まれ南国育ちだからさあ! もう「雪がある」っていうだけでテンションあがっちゃうわけですよ! スキー場なんかも行く予定になっててさ! スキーだよスキーうまれてはじめて! 両親もそうだよなにせ「北の国から」世代だからね! 脳裡をよぎるさだまさしの歌声! 雪原を跳ねるキタキツネ! ルールルルルルルルルル!
 
 ところが。

 3月末ごろの北海道って、観光地としては完全にオフシーズンなのね。

 まだ雪はあるって言っても、すでに富良野とか山のほうでも解けかけてるわけ。最盛期には真綿みたいなパウダースノーのゲレンデも、質の悪いかき氷みたいなジャリジャリの砂山同然。スキー上級者だって滑るのが難しいコンディションですよ。そんなところに南国生まれの初心者がノコノコ出てったらどうなると思う?
 じゃあ、もう雪がなくなりかけてる札幌のほうはどうかというと、失望&絶望ってレベルでクッソ汚いのよ。時代的にスタッドレスタイヤが義務化される前で、乗用車もトラックも金属製のピンが飛び出たスパイクタイヤを普通に使ってたのね。路面が氷で覆われてる真冬はいいんだけど、春先は日によって凍ってたり解けてたりするじゃん。スパイクがアスファルトをガリガリガリガリ削りまくって黒い粉塵を撒き散らすわけ。それが残雪に混ざって黒い泥になるんですわ。テレビでよく見る一面の銀世界、大通公園の雪まつりみたいな風景はどこにもないのよ。ハマチの養殖やりすぎて赤潮で汚染されたうちの近所の海岸とどっこいどっこいの汚さなのよ!
 ついでにサービス全般もさ。やっぱ観光地となると最盛期に合わせていろいろ準備してるのよ。食べ物、飲み物、設備。そしてそれらはいつも無限に供給されてるワケじゃない。あーそれもう季節過ぎちゃったんですよー、ごめんなさい先月まではやってたんですけどねー、いま機械が壊れちゃってて夏までには直す予定なんですけどねー、と、万事こうなる。

 もう、ほぼほぼガッカリですわ。

 さっきも言った通り、永元家の家族旅行は家業の関係でだいたいシーズン外れに行われるから、ちょっとやそっとのガッカリじゃへこたれないんだけどさ。なにせ北海道だもん。事前の期待値が高すぎて。この記事を書こうとするまで大半のことを忘れちゃってたくらい。

 ────でも、ひとつだけ。
 この旅行で、今も鮮烈に記憶している出来事があったんだ。

 
         ○
 

 そこは、観光客の受け入れを主として運営されている牧場だった。
 宿泊施設もあるのだけれど、予約は事前に取っていなかったと思う。親父が富良野のスキー場で転んで捻った足が悪化して車の運転がしんどくなってきたとか、母親も当時まだ幼かった弟の面倒を見るのに疲れてたとか、そんな感じで転がり込んだんじゃなかったかな。オフシーズンだから飛び込みでいけた感じ。永元家以外の宿泊客はいなかったような。いてもせいぜい1組か2組くらいだったろう。

 家族の中で元気なのは、僕だけだった。
 なにせ高校入学前の15歳だからね。気力・体力ともに自分の人生の中でもほぼ絶頂期ピーク。牧場の中を歩き回り遊び回り……といきたかったんだけど、オフシーズンだからどの施設もやってないのよね。

 ここで唯一稼働していたのが、体験乗馬だった。

 生きたサラブレッドに触れたのは、間違いなくこの時が最初だった。僕は当時でも身長180cmを軽く超えていたんだけど、それでも自分の視点より上に馬の頭があるのよね。そんな相手と向き合うこと自体、かなりのレアケース。
 正直、最初は腰が引けていた。自分よりデカい相手の機嫌を損ねてはマズいという本能的な警戒心もあって、犬や猫を撫でるような気持ちで優しく接していたら、係の人が「それじゃ馬には伝わらないよ、これくらいで」って手本を見せてくれたんだけど、吉本の漫才師もビビるくらいの勢いでバッシンバッシンしばきまくるのよ。
 マジかよ馬。でかい上にタフとか完全に勝ち目ねえじゃん。当時は何かとイキりがちなお年頃だったのにもう完全屈服の構えである。
 ていうかなんぞこいつ、目の前でぼっとんぼっとん巨大なクソ垂れてんだけど。いやクソだけじゃねえわションベンも滝みたいにジャージャー出てるんだが?! なんやマイペースにも程があるんちゃうか?! ふつう動物ってもうちょっと人間のこと警戒するもんちゃうの?! 犬でも猫でも飼い主と違う人間が近くにいたら態度変わるもんやぞ?!?! 

 などと盛大にビビり散らかし、あるいは戸惑いまくりながら。
 どうにかこうにか馬の背中へ跨がって。

 係員さんに牽かれながら、僕を乗せた馬がゆっくりと歩き出した。

 おお……これが馬に乗るということか……目線たっけえ……暴れん坊将軍もこんな感じで下々の平民を見下ろしてたわけか……うむうむ、くるしゅうないぞ、よきにはからえ……。

 観光牧場の体験乗馬なんて、普通ならここで終わりである。

 だが、なにぶんここには乗馬以外にすることがなにもない。
 もともとそういうメニューがあったのか、それとも係員のお兄さんのアドリブだったのかは忘れてしまったが「もうちょっと本格的に乗馬を教えてあげようか?」という流れになった。
 それぞれの馬具の意味。特に手綱の扱い方。馬という動物の気性について。常歩での発進と停止の合図。そして────

 はたと気付いた頃には、当たり前のように手綱を手放して。
 並足で走る馬の鞍上で、足と腰だけでバランスを取る訓練をやらされていた。

 これ、やったことない人には想像つかないと思うんだけど、めちゃくちゃ難しいしべらぼうに怖いのよ。
 だって、馬はスローペースとは言え走ってんのよ? 自分が座ってる場所がバッコンバッコン跳ねてんのよ? そこにだね、ウルトラマンが仁王立ちするあの感じで、こう、手を腰に当ててだね、完全に下半身だけでバランス取らなきゃなんないのよ? なんか間違ったら自分の身長より高いところから地面に向かって真っ逆さまだからね?!
 これ、係のお兄さんに言わせると「できない人はどうやってもできない」らしくて。一緒にいた母親だったか別の客だったかも挑戦してたんだけど、怖がって馬の背や鞍にしがみついて一度もできなかった。

 ところが自分、なんか出来ちゃったのよ。とりあえず最低限って感じではあるけど。ほぼ一発で。

「ああ、すごいすごい。うまいね君。向いてるよ。惜しいなあ、もうちょっと小柄だったら競馬の騎手になれたのに」

 お世辞だとは思うよ。思いますけどね。
 褒められて嫌な気持ちはしないわけで。

 で、今度は係員さんの補助なしで、ひとりで馬にまたがって。
 同じく馬に乗った係員さんの後ろをついていく形で、牧場内を散策して。

 最終的には、だだっ広い牧草地を好きなように走らせてもらいました。

 いや、ホントなのよ。ウソじゃないのよ。マジなのよ。特に乗馬の経験がおありの方はそんなわけねえだろフカしてんじゃねえぞってお思いでしょうけどね。
 ピンと来ない人は、そうだな、乗馬+レッスン+カリキュラム、とかで検索してみて。だいたいどこも↓こんな感じ↓だから。

ビギナークラスは10回講座で、馬上でのバランスのとり方、常歩での発進・停止を学びます。簡単な手綱操作、軽速歩のマスターが目標です。
(中略)
ビギナーを卒業すると、次はノービスクラス。乗馬全体の基礎をマスターするベーシックレッスンです。常歩⇔速歩の移行、バランストレーニング、歩度の伸縮、巻乗り・半巻乗り・斜手前変換など、馬のコントロールを練習します。
(中略)
それらをマスターしたら、いよいよ憧れの駈歩かけあしに挑戦!

 いやいやいやいやどんだけ間をすっとばしたのよ自分?!?!?!?!

 もちろん最初の1回だけでそこまでいったわけじゃなくて、この牧場には1泊2日か2泊3日くらい滞在してたと思うから、トータルで3~4鞍くらい乗ったんだけどさ。それにしたってとんでもないスピードで乗馬の技術を学んだことになるのは確かだよね。
 だいたい、係員さんだってお仕事でやってるのよ。客が落馬して怪我したら怒られるどころじゃ済まないしさ。逆に乗馬に不慣れな客が何かやらかして、馬が暴れただの怪我しただのってなれば、これも大損害なのよ。

 今にして思うと、本当に、あり得ないことだった。

 で、これの言い方を変えると。

 あのとき、係員のお兄さんが「乗馬の才能がある」と言ってくれたのは、たぶんお世辞じゃなかったんだと思う。僕はそれくらい「乗れて」いて、牧草地を一人で走らせても大丈夫だと判断されたんだろう。

 何より、乗せてもらった馬が「よくできた子」だった。
 係のお兄さんも「気性が穏やかな子だから、急に変な動きをしたり驚いて立ち上がったりはしないよ」と言っていた憶えがある。頭のいい子だったんだろうね。ただ言われたとおりに動くだけじゃなく、鞍上が不慣れなら不慣れなりに合わせられるくらいに。

 そして僕も、上手に乗れてないことを自覚しながら、ごめんよ上手く乗れなくてと思いながら、馬が混乱したり戸惑ったりしないように一生懸命、礼を失することがないようにと思いながら乗っていた。
 そういう「乗り手の気持ち」って、だいたい馬にも通じるらしいよね。
 馬のほうでも、こいつの言うことは聞いてやろう、うまく合わせてやろうと思ってくれてたんだろう。それが係員さんから見ると「ああ、この人馬は好きに走らせても大丈夫だな」という判断に繋がって────

 いやもう、ほんとに。
 この乗馬、めちゃめちゃ楽しかったのよ。

 これまでの人生で楽しかったことを上から数えても余裕でトップクラス。もし許されるものなら、この時僕を背に乗せてくれた子を四国まで連れて帰りたかった。しょっちゅう北海道に来てこの子の背に乗って走り回っていたかった。
 その後、運転免許も取って、クルマにも原付バイクにも乗ったけどさ。馬に乗るってのはそういうのと根本的に違う別種の楽しさがあったよね。それが何なのか具体的に言葉にするのは骨が折れるし、この記事が長くなる一方だから省略するけども。

 
         ○
 

 で、この9ヶ月くらい後が、オグリキャップのラストランになる。

 当時の僕は16歳。競馬のことなんて何も知らない。騎乗予定だった武豊という騎手の凄さもよくわからない。わかっていたのは、オグリキャップという馬がめちゃくちゃ強くて、何度も何度も勝ち星を挙げていて、そして、ここしばらく負け続けているということだけ。

 だから、シンプルに、自分の経験の延長線上で考えていた。
 馬に乗るということ。馬と一緒に走るということ。めちゃくちゃ楽しかったあの感覚の延長線上に「競馬」というものを捉えていたんだ。

 今思うと、それはあながち間違いでもなかったんだよね。その観光牧場ではG1を勝って引退した功労馬も繋養されていたそうだし、僕を背に乗せて走ってくれた子も元はJRAや地方競馬のレースを走っていた可能性が高いからね。国内で生まれたほとんどのサラブレッドは、競走馬になることを期待されて育てられてるわけなので。

 そうして、例の悟りヽヽヽヽにつながる。 

 オグリキャップはわかってヽヽヽヽいるヽヽはずだヽヽヽと。

 勝ったときに、陣営の人たちが、厩務員さんや調教師さんや、自分の背に乗っている騎手が、どれだけ喜んだか。
 逆に負けたときに、みんながどれだけ悔しがったか、悲しかったか。
 だったら、誰よりもオグリ自身が、あの時にはいちばん悔しかったはずだ。次は絶対勝つ。このまま終わってなるものか。そう考えているはずだと確信していた。僕はオグリには会ったこともないし、過去のレースだって一度も見たこともはなかったけれど。

 で、結果、その通りになった。

 オグリの出生時のエピソードとか、生産牧場での努力とか、当時の陣営の苦労とか、そういう話を知るのは、もっとずっと後になってから。
 競馬にはブラッドスポーツなんて別称があるらしく、やれ血統だの配合だのという話になりがちだけど、僕はそういう面を主軸に競馬を捉えることには否定的だ。
 少なくともオグリキャップは、良血から遠いところにいた馬だしね。彼はもう、義理となさけと気持ちで走って伝説になったんだと、今でもわりと真面目に思っている。


2023/08/23

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