見出し画像

イモムシになりたい。

 倉敷一葉(くらしきかずは)

 僕は彼女の名を一生忘れない。その甘酸っぱい初恋の味。その残酷さも。

 中学校の入学式から少し後れて、彼女はこの学校に転入してきた。まるで目立つために入学を後らせたようにも思えた。

 彼女が登校したその日から、校内は高揚感に包まれた。

 倉敷一葉。彼女は華奢で背が高く、細い四肢に長い黒髪。つい一ヶ月前までランドセルを背負っていたとは思えないほど、どこか大人びた仕草。優雅な身のこなし。大きな瞳はいつも遠くを見ているかのようで神秘的だ。
 そして、言うまでもなく、美少女である。

「彼女の回りだけ空気が違う……」
「頭も良いんだって……」
 成績優秀。品行方正。容姿端麗。男子生徒はソワソワと落ち着かない。女子生徒はどう声をかけていいのか解らない。わざわざ教室を覗きにやってきた生徒の行列。廊下をすれ違う誰もが足を止めてしまう。彼女の行く先々、常に視線が集まった。

 普通なら校内のアイドル路線を真っすぐ進むはずだった。
 ……でも、そうならなかった。

「ほら、可愛いでしょう」
 彼女がポケットから取り出したのは、大きなイモムシだった。女子生徒たちは叫び声をあげて跳び散った。男子生徒は悪い夢だとばかりに教室を去った。

 彼女はちょっと変わっていたのだ。

   ★

 彼女は放課後、3日間かけて校内の樹木を全て見て回った。一本一本見上げては、何やら呪文のようなものを唱えていた。そして最後に校門脇にある大きなクスノキによじ上った。
 それを見た教頭先生がたしなめた。

「倉敷くん、何をしているんだね? 危ないから降りなさい」
 彼女は暫くは呪文を唱えていた。
「木の葉の枚数を数えているんです」
「木の葉の枚数? いったい何の意味があるのかね?」

 彼女は軽く呪文を唱えたあと、迸るように言った。

「木の葉はこの学校内で唯一、生産活動をしているんです。ほら、人間は消費するだけでしょう? 消費と生産のバランスを知る為に木の葉の枚数が必要なんです。イモムシと人間とどちらが消費効率がいいのかと思って」

 その場に居た皆があっけにとられた。誰も何も言えなくなってしまった。彼女は傍観者などお構い無しに呪文を唱え続けていた。

「2AF54」
 最後にそう呟くと、ようやく樹から降りた。

「葉っぱの枚数を数える方法はね、16枚を一つの束にするの。その束を16個作って、さらにそれを16個作る。これを繰り返すのよ」
 呪文の正体はこれだった。
「私のおじいちゃんが教えてくれたの」
 おそらく、葉っぱの数え方ではなく、2進法を教えたのだろう。
「私はこの地球に何枚の葉っぱがあるか知りたいの」

 僕と同じ12歳だとは到底思えない。確かに成績は優秀だ。でも、何処か違和感がついて回る。彼女の奇妙な言動が噂されるにつれ、皆が敬遠するようになった。

  ★

 彼女に友達が出来る様子はなかった。いつもポツンと独りでいた。しかし、寂しがる様子も無かった。時折、ポケットからイモムシを取り出しては、ニコニコと話しかけている。天然にマイペースなのだ。

 そんな様子を心配したのか、担任教師が彼女に言った。
「倉敷さん。自分の世界も大切かもしれませんが、学校は集団生活をする場所です。お友達を作るのも大事ですよ」
 少しきょとんとした表情をした後、大きな声で言った。
「はい、わかりました」

 そして騒動は起きた。

 翌日、彼女は僕の所にやってきたのだ。そして皆の前でこう言った。
「お友達になってください」

 教室は一瞬、静まりかえった。やがて、大きなどよめき、叫び、悲鳴。
「ありえねー」
「うっそだろー」
「終わった……」
 教室は阿鼻叫喚の渦に湧いた。

 僕。僕はといえば、小太りで、丸い眼鏡をかけていて、彼女よりも背が低かった。目立たなく、運動音痴で、鈍足で、何一つ取り柄が無い。つまり、冴えない人間を絵に描いたような風体だ。

「お友達になってください」
 そう言われて、暫く唖然としたものの、断る理由は無い。多少変わっているとはいえ、キラキラの美少女だ。
「は、は、はい、ぼ、僕でよければ……」

 この件は校内、校外問わず、瞬く間に広がった。

 当初はミステリーな事件として取り沙汰されたものの、すぐに嘲笑へと変わった。皆、気づいたのだ。いや、僕だって気づいた。

「イモムシだよね」
「そっか、イモムシなんだよな」
「なあんだ。はははっ」
 彼女は、僕の風体をイモムシと重ねたんだ。きっとそうなんだ……。

 こうして僕と彼女の友達関係が始まった。
「イモムシ君」
 クラスメイトはクスクス笑いながら僕をそう呼んだ。

 僕はイモムシでも何でもよかった。クラスメイトが何を言おうと、どう揶揄されようと構わない。笑いたい者は笑え。軽蔑するならするがいい。
 とびっきり可愛い女の子が「おはよう」の声とともに向こうからやってきてくれる。天使のような笑顔が目の前で繰り広げられる。他の誰よりも彼女の近くに居られるのだ。こんな幸せを、誰が手放すものか!

 彼女は時折、ポケットからイモムシを取り出して見せてくれた。
「イモムシはやがて美しい蝶になるの。イモムシは葉っぱだけ食べて成長するのよ。つまり、葉っぱは美しい蝶を創り出しているの。葉っぱって凄いよね」
 キラキラと目を輝かせながら彼女は言う。
「イモムシは葉っぱと蝶を繋いでいるの。葉っぱを蝶へと変化させるのよ」

 彼女は木の葉とイモムシをこよなく愛していた。

「あなたもきっと、美しい蝶になれるわ」
 彼女は真面目な顔をしてそう言った。
 嬉しいような、悲しいような……。やはり僕は人間界のイモムシとして認識されていると理解するしかなかった。

「すごくいい子じゃん……」

 これは僕の率直な感想だ。厭味な言動は微塵も無い。ただ純粋で、熱心で、爽やかで、清く正しく、美しい。
「一葉ちゃん……」
 気がつくと、彼女の名を口にしていた。
 もし彼女がごく普通の容姿であったとしても、僕は恋をしていただろう。姿に憧れるのではなく、本当に……心から好きなってしまったのだ。

 彼女の睫毛の一本一本が見えるくらい近くに居る。心臓が高鳴る。
 スカートの裾が僕のズボンに絡む。心臓が、壊れそうに高鳴る。
 長い髪がサっ……と頬を撫でた時は、このまま世界が終わってもいいと思った。

 しかし、彼女にはそんな僕の心は見えていなかった。
 そもそも彼女は異性というものに関心が無かった。人間が恋をするなどという事さえ、理解していたのかどうか怪しいのだ。純粋であるがゆえに。
 それでも君は僕のそばで笑っている。

 残酷な事だった。

 僕はいつか、この関係が終わる事も理解していた。それは今日起こるかもしれない。
 だから、今のこの一瞬、まばたきの一つ一つをも大切にしたいと思った。

 そんな僕にも、どうしても解明出来ない聖域があった。
 それは、彼女のスカートのポケットの中だ。

 どうやってイモムシを収納しているんだろう? いや、どうやってイモムシを飼っているんだろう?
 そこは、どんな空間なんだろう。どんな世界が広がっているんだろう。そして、どんなに耽美な楽園なんだろう……。

 ああ、美しい蝶になんてなれなくてもいい。
 僕の願いはただひとつ。

 イモムシになりたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?