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リバタリアニズムの道徳的的正当性

はじめに

 お疲れ様です。稚拙な文章で恐縮ですが、またまた書いてみようかなと思います。
 本質的に言いたいことは「なぜ経済的に保守なのか」章と「なぜ社会的にリベラルなのか」章の最後に書いていますので、もしよければその部分だけでも!
 僕が、今回訴えたいことはリバタリアニズムの物質的な魅力ではなく、精神的な面での魅力です。リバタリアニズムは日本語に直すと「自由至上主義」とされることからもわかるように、水平的平等である自由権を重視する考え方です。それゆえ、垂直的平等である社会権を重視するコミュニタリアン(共同体主義者)はもちろん、中立的な考えの人からしても、リバタリアニズムは社会的弱者にとって薄情な思想と思われることが多いように思われます。 
 しかし、僕は必ずしもであるとは思いませんし、そこから飛躍し潜在的な差別意識がある思想という批判は強く否定したいです。僕なりのリバタリアニズムの思想的寛容さを説明することで、共感してく入れる人が一人でもいてくれたら幸いです。

 リバタリアニズムとは

そもそも、リバタリアニズムは共産主義のように人によって思想的多様性があるので一概に語れません。ですが、おおむね共通しているといえるのは「経済的には保守主義、社会的にはリベラリズムに近い」ということではないでしょうか。ただし、ここでいう「保守主義・リベラリズム」はアメリカにおける保守・リベラル的な思想ということです。
 「政府による経済活動への介入を防ぐ」ということでは保守主義者と近く、「世俗的な価値観を志向する」ということではリベラルに近いでしょう。実際、アメリカではリバタリアニズムを支持する「リバタリアン」であると自負する人の中でも、第三政党であるリバタリアン党よりも共和党や民主党を支持する人のほうが多いとの調査結果もあるほどです。
 ですので、これからは「政府による経済活動への介入を防ぐ」と「世俗的な価値観を志向する」ということの道徳的正しさを説明したいと思います。
  
 なぜ経済的に保守なのか

 「政府による経済活動への介入を防ぐ」ということは、経済的に自由であるということは税金や規制、公的機関は少ないということです。これだと当たり障りのない言い方ではありますが、リベラルは「社会的弱者を経済的に見放すことになっている」と反論します。
 つまり、具体的にはこのような例が挙げられます。
①税金が低いということは、社会保障にあてる財源が少ないことになるので、経済的に自立していない人は生活に困ってしまうということ。
②規制が少ないということは、労働者の権利が虐げられたり、環境問題や医療問題で貧者に直撃するということ。
③公的機関が少ないということは、民間の利益にならないことは行われず、仮に民間でも採算が悪いとサービスの質が低下するということ。
 ですが、こういった批判が実際はどれくらい現実を捉えているのでしょうか。いわば、これらの批判は19世紀のような政府権限がはるかに小さかった時代であれば的を得ているかもしれませんが、現代においては見当違いも甚だしいということです。
 現代の社会問題は、このような市場によって引き起こされているのではなく、年々裁量的に大きくなる政府によって引き起こされているとリバタリアンは考えます。先のような批判にはこのように反論できます。
 ①本来は労働により自らの稼ぎで生きていける力があるのに、政府が福祉を過剰に提供するので自立心が阻害され働くことを諦めてしまっている。
 ②才能があるにもかからず厳しい雇用規制のために能力を生かせていないく、特定の問題にコミットメントするあまり他の社会(環境や医療だと自由な経済活動の妨害)を問題を発生させている。
 ③民間のほうが効率的にサービスが提供でき従業員や利用者も利益を得ることができるのに、政府によって阻害されているケースもある。
 これらの問題点の根本は、公共の福祉に反していないにもかかわらず自由権が侵害されているケースがあるということです。本来才能を発揮することで自分らしく生き、富と社会的地位という正当な報酬を受け取れたはずのものが得れないということなのです。
 そもそものその話として、人間は政府のない自然状態では何からも支配されず等しく自由でした。だが次第により社会を進歩させるためにやむ負えず一部の権利を政府に信託した。しかし実際、現代においてもはや政府は正当(公共の福祉)なき理由で自由権を侵害しているので、それに対して反対すべきだ、ということです。
 確かに「そもそも人間は自由なのだから、自由な経済は当然だ。」こういう言い方をするとやや過激に聞こえますが、「政府に人生を左右さずに生きよう。」と言えばリバタリアニズムの論理も一理あるように思われないでしょうか。
 以上のように、リバタリアニズムが経済的自由に重きを置く理由が単なる拝金主義ではなく、基本的人権という普遍性を伴った理由から擁護しているのです。
 
 なぜ社会的にリベラルなのか

 社会的にリベラルである理由は先の理由にあげたように、人間は自然権を生まれながらに持っており、自由に生きることができる。それゆえ、迷惑をかけなければ自由は最大限尊重されるべきである、ということです。
 SDGsやアイデンティティの政治の台頭からもわかるように、家族の在り方やライフスタイル、宗教観といった社会的な概念の多様性を尊重し、人種差別や国籍差別に反対すること自体はそこまでの奇抜さはないように思えます。
 ですが、リバタリアニズは政府によってリベラルな社会を実現することには極めて否定的です。これは、現在のリベラルがヘイトスピーチの厳罰化やリベラルな公立教育プログラムの策定、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)の徹底などを推進することときわめて対照的です。
 主な理由の一つは、政府が強制力を伴って社会をリベラルな方向に進めても、むしろ反発を生んでしまうということがあり、アメリカにおける強制バス通学(白人と黒人どちらも乗車するスクールバス)やアファーマティブアクションに反対するというものです。これは帰結主義的は発想であると言えます。
 そしてもう一つの理由としてあるのが、そもそも政府がリベラルの定義を定めることへの拒否感です。確かにリバタリアンは人種差別に反対しますが、それは不当な自由権への侵害という発想から反対しているのです
*もちろん道徳的嫌悪もあると思います。
 結局、政府が言動や行動の良し悪しを決定するということ自体が社会をリベラルな方向に進めるという成果以上に、自由権という基本的人権の侵害という新たな問題を引き起こしているので褒められたことではないのです。
 リバタリアンはそのような旧来の価値観が生む問題に対しては異なる解決法を提示します。一つが市場的アプローチです。これは、リベラルな価値観を有していない個人や企業は社会的地位を得れないので、必然的にそのような考えは広まらなくなるということです。例えば、Aという会社の採用が人種的偏見に基づき行われているならば、公平な採用を行っている競合他社との競争に最終的に不利になり、改善される。同じように、差別主義者はその態度や言動から、様々な人間と付き合う仕事では不適格なので淘汰される。こういった利己主義的な視点に基づく解決法はミルトン・フリードマンも同じように考えています。
 以上のことからもわかるように、リバタリアニズは一見、反リベラルのように見えますが単に解決方法が異なるにすぎず、本質的には社会的寛容を重視する思想なのです。

 まとめ

 以上のことからわかるように、リバタリアニズムは決して選民思想や隠れた差別思想ではなく、むしろ対極にあります。世の中は画一的な価値観でできておらず、ある事象にはさまざま解釈があり、さまざまな性格の人がいる。そんな世の中では政府という強制力を伴った一価値観の押し付けでは状況は好転せず、かえって悪化させてしまうことすらある。そもそも人間は生まれながらにして自由であるのだから、自由な状態が当然であり、今のような時代だからこそより自由が貴ばれるべきである。こじらせた中二病的思想ではなく、伝統ある思想の一体系なのです。
 これを読んでくれた方が、賛成はせずともリバタリアニズムへの興味を持ったり、認識を変えてくれるとありがたく思います。
 


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