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【番外編】遠藤周作『沈黙』をゆるく解説(感想・考察編)

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■はじめに

長きにわたったこの『沈黙』シリーズもいよいよ完結編となりました。

前回までのあらすじ編を踏まえて、自分なりの感想と考察編をお送りいたします。

『沈黙』はあまりにも有名な作品であり、様々な解説系のブログがあります。私はあえてそういったものを参考にせず、あくまでも「自分なりの」解説記事をお送りしたいと思います。難しい話は一切しません。そしてこの記事を読んで、読んだことのない方には「読んでみたい!」と思わせ、読んだことのある人には「もう一度読んでみよう!」と思わせる、そんな内容にしていきたいと思います。

■徹底したリアル志向

『沈黙』は、禁教時代を題材にした「歴史小説」です。当時の時代背景がとにかく徹底的にリアルに描かれているのが特徴です。作者は相当念入りに取材、下調べをしたのだと思います。

主要人物には実在した人物のモデルがおり、たとえば主人公のロドリゴは「ジュゼッペ・キアラ」というイタリア出身のイエズス会宣教師がモデルとなっています。ロドリゴと同様に棄教し、幕府のためにキリシタン取り締まりの関係の仕事に就き、「岡本三右衛門」(作中では岡田)の名を与えられて妻をめとったという、作中のロドリゴと同じ運命をたどりました。そのほか、フェレイラや井上筑後守にもモデルがいます。

このように実在の人物をモデルにしつつ、作者自身の解釈により、彼らがどんな思いでその時代を生きていたのかを追っていくのがこの作品の特徴です。キリシタンの取り調べがどのようなものであったのか?拷問はどんなものだったのか?というものが具体的かつ鮮明に描写されています。あくまでも小説ですが、禁教時代がどのようなものだったのかを、よりリアルで人間味のある視点から知ることができるのが『沈黙』という作品なのです。

■「日本人とキリスト教」

物語の後半、フェレイラの語った「日本人とキリスト教」についての意見。皆さんはどうお感じになったでしょうか?「その通りだ!」と感じた方もいらっしゃるでしょうし、「それは違うよ!」と、『ダンガンロンパ』の苗木くん張りに思った方もいらっしゃると思います。

日本人のクリスチャンは人口の1%程と言われています。何十年もの間「1%の壁」などと言われ、日本のキリスト教界において大きな課題とされています。キリスト教関係者なら「なぜ日本人クリスチャンが少ないのか?」なんて議論はもう耳にタコができるくらい見聞きしていますよね。

フェレイラの「日本人は神という超越的な概念を持てない」「キリスト教の神(デウス)を、仏教の大日に置き換えて信仰していた」という主張にうなずいた方も多いかと思います。もしかしたら、すでにキリスト教の洗礼を受けている現代の日本人でも、根底にはこのような考え方が眠っている人が少なくないのかもしれません。

その他にも、「古来の日本のアミニズム的信仰がキリスト教と相いれないから」「江戸幕府の寺請制度が原因で、仏教の『家の宗教』という側面ができてしまい、キリスト教のような『個人的な宗教』というものが根付きにくい風土になってしまったから」など、様々な意見がありますよね。どの意見も一理あると思います。

私は「日本人はなぜキリスト教徒が少ないのか?」という疑問に対しての回答としては「日本人は宗教や信仰そのものは否定しないが、教会や教団組織といったものに所属することに抵抗感がある」という説に一票を投じたいと思います。これは『日本人はなぜ無宗教なのか』という本において主張されている考え方です。

実は私は、大学時代にこの本の著者の阿満利麿さんの授業を受けていたことがあるのですが、めちゃくちゃ感銘を受けたことを覚えています。日本古来の神道などはいわば自然崇拝が根本にありますし、そこかしこに神社があって、気軽に立ち寄って参拝できる。その上で特定の教団に所属する必要もないわけです。

日本人も、キリスト教の教え自体に特段悪い印象は持っていないでしょうし、むしろ良い印象の方が多いでしょう。自由、平等、博愛といったキリスト教的価値観は世界共通と言ってもいいはずです。キリスト教関係の学校や病院、福祉施設の数も多く、社会的影響力は大きい。しかし、だからといって「教会に行ってみよう」「聖書を読んでみよう」とはならない。

キリスト教は教会という建物の中に入るのも勇気がいると思いますし、信者になるには洗礼という儀式を受けなければならない。神道に比べて閉鎖的で、特定の人しか教会に出入りできないと思われてしまいがちです。(実際は誰でも行っていいところなのに)

ですから、とにかく徹底的に教会の敷居を下げ、地域社会の中に入り込んでいくこと、「誰でも来ていいところ」であることを前面アピールすること。もうこれが最優先でしょうね。難しい教義の話など二の次三の次。教会は、『涼宮ハルヒの憂鬱』の古泉一樹が言うところの「閉鎖空間」ではないことをアピールするべきでしょう。

話が脱線してしまいましたが、「日本人とキリスト教」という、遠藤周作が生涯テーマにし続けてきたことを、この作品を通して改めて考えるきっかけになると思います。

■キチジローという人物

さて、とにかくイジりにイジりまくった「キチジロー」についてです。

あらすじ編①でも触れましたが、この『沈黙』における裏主人公であり、最重要人物の一人です。彼は司祭でも奉行でもない、ただの一般人です。そして何度もロドリゴを裏切り、神を裏切り、その度に罪を告白してゆるしを請います。

そのようにして幕府の目から逃れに逃れまくり、結果として彼は、物語を通してロドリゴと共に、拷問も受けずに最後まで生き残った数少ない人物でもあります。

キチジローは最後まで自分の弱さを責め、悔い改めていました。何度も罪を犯しながら、それでも神にゆるしと救いを求める姿、彼こそが真のクリスチャンの在り方なのだ・・・というのが一般的になされる論調だと思います。

ロドリゴは神の存在を作中で何度も疑います。自分の中の迷いと葛藤し、苦しみました。それに対してキチジローは「転ぶ→告解→転ぶ→告解→・・・」の繰り返しで、「まるで成長していない・・・(by安西先生)」と言いたくなってしまいますが、彼は一度たりとも神を見失っていないのです。

「俺は弱い」と言い、殉教していった「強い」信仰者たちと自分を比べて嘆きます。しかし転んでも立ち上がることを辞めない、諦めずに神に自分の弱さを告白しつづける。このことがいかに凄いことか。キチジローは純粋に、まっすぐに神様にだけ信頼を置いていると言えるでしょう。

キチジロー、お前はすごいやつだよ。散々いじってごめんな。ただ、君がなぜあんなに地域間を高速移動できるのかは一考の余地があると思うよ。

■「神の沈黙」に対するアンサー

ロドリゴは何度も「主よ、なぜあなたは黙っておられるのか?」と繰り返します。『沈黙』のタイトル通り、神の存在を問う、信仰とは何か?といったものがこの作品の最重要テーマだと思います。

ロドリゴが踏絵に足をかける瞬間、イエスが語り掛けてきた「私は苦しみを分かつためにうまれ、十字架を背負ったのだ」という言葉。これは遠藤周作の思想の根源にある「弱きものの同伴者としてのイエス」です。

遠藤は、「イエスは様々な奇跡を起こしたが、それは重要ではなく、弱い者たちに寄り添い、同伴者としてあり続けたことが一番の功績だ」と主張していることで知られています。言い換えれば「神としてではなく、人間としてのイエス」こそが大事なのだということだと思います。

神であるイエスを、「人間的な魅力のある人物」と解釈することで、神の沈黙を「沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいた」とし、奇跡を起こすという神的な側面をある意味では否定したとも考えられます。

遠藤の解釈の仕方には賛否両論があるでしょう。「神を冒涜している!」という人も少なくないと思います。しかし遠藤は、司祭でも、神学者でもない一般信徒であり、一人の小説家にすぎません。

だからこそ、イエスという人物の「人間としての側面」に強い魅力を感じ、作品という形として残すことができたのだと思います。

■キリスト教知識があればより楽しめる

さて、作中には聖書の話や、典礼、秘跡などの用語がたくさん出てきます。信徒である私にとってはもちろん知っていることばかりですし、すぐに理解して物語に結び付けることができました。

しかし、信徒でない方には正直「???」なものが多いと思います。「ゲツセマネ」という単語が出てきても、「なにいってんだこいつ」くらいのことは思ってしまうでしょう。信徒ならば、「ああ、イエス様が十字架にかかる前夜に苦しみながら祈ったあの場面ね」と即座に反応できますが。

しかし、逆に言えば、キリスト教知識を身に着けたうえで読めば、「二度楽しめる」とも捉えられるわけですよ。さらにいえば、プロテスタントの人にはなじみの薄いカトリック用語も多いわけですから、プロテスタントの信徒の方もそれらの用語の知識を身に着けたうえで読めば「二度楽しめる」んです。一粒で何度もおいしい作品がこの『沈黙』なわけです。

じゃあ、そういったキリスト教知識はどこで身につければいいの?って話ですよね。分厚い聖書を読まなきゃいけないのかな?専門書とか買わなきゃいけないのかな?と心配になりますよね。そんな心配はご無用。このnoteにはありとあらゆるキリスト教知識をわかりやすく身につけられる記事がそろっています。是非お読みください。


読むがよい。お前たちがキリスト教やカトリックのついての知識がなくて苦しんでいたことを私は知っている。そのために私はnoteを始め、記事を書き続けているのだから。


■おわりに

というわけで、長きにわたりお送りしてきた『沈黙』シリーズは完結です。長期にわたりお付き合いくださり本当にありがとうございました。

正直書いていてかなりきつくて、途中でやめようかとも思いましたが、何とかやりきることができました。『BanG Dream!』のライブハウスのオーナーに「やりきったかい?」と聞かれたら「はい!やりきりました!」と笑顔で返せると思います。

次回からは、時期も時期ですし、「待降節」について数回記事にしていきたいと思います。

それではまた!

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