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【番外編】遠藤周作『沈黙』をゆるく解説(あらすじ編③)

前々回(あらすじ編①)はこちら


前回(あらすじ編②)はこちら

大変長らくお待たせいたしました。今回で「あらすじ編」はラストになります。

■井上との二度目の面会

ジュアンの殉教の数日後、ロドリゴは井上と再び顔を合わせることとなります。井上は平戸に出向いており、戻ってきたのだと話します。

平戸はかつてキリシタンの拠点であった話は前回もしましたよね。井上はかつての平戸の話をして、そこの大名には4人の側室がいたが、妬み合いが絶えず、皆追放されてしまったという話を始めます。

そして、「日本はまるでこの平戸の大名みたいなもんだよ。日本をめぐってイギリス、オランダのプロテスタント勢と、スペイン、ポルトガルのカトリック勢が争っている」と。

井上は言います。「平戸の大名は賢い」と。これはつまり、日本がキリスト教を禁じたという政策は正しいのだという比喩ですよね。

ロドリゴはそれに対し「我々の教えでは一夫一妻制なので」と、これまた美味い返しをします。井上は「ほう。では正室はポルトガルということか?」

ロドリゴは言います「それは、我々の教会です」と。ここではカトリックもプロテスタントも全部ひっくるめて、教会の教えは一つであると言うことでしょうね。

井上は「日本は気心のしれた日本の女を選ぶのが良い」といい、これに対しロドリゴは「国籍よりも、夫への真心を大切にするのが我々の教えなので」と返します。

なんという高尚なレスバでしょうか。二人共例えがうますぎますよね。私だったら絶対こんな論争はできません。いかに争いを回避するかということに全力を注ぎますね。

そんなやり取りのあと、ロドリゴは特に何もなく平穏な日々を過ごします。食事も一日一回から二階に増えたり、いい服を着させてもらったり、明らかに待遇が良くなるんですね。てか今まで一日一食だったんかいと。「まちカドまぞく」のシャミ子が金持ちに見えるほどの超絶貧乏暮らしですね。

これだけ待遇が良くなると、逆に警戒するわけですね。「何かが近いうちに起こるぞ」と。するとあのモニカたち囚人が、どこかへ連れて行かれるのを目にするんですね。やはり何かある。そんなロドリゴの予感は的中してしまいます。

■ガルペの殉教

ある日の早朝、ロドリゴはどこかへ連れて行かれます。とある海の近くの松林に着くと、通辞から「お前と同じポルトガルの人間に会わせたい」と言われます。

ポルトガルの・・・もしかしてフェレイラか?フェレイラなのか?ついに俺を転ばせるために最終兵器を投入しやがるのか井上様はと。

そんな思いがよぎる中、砂浜にあのモニカたちの列がやってくるんですね。ここにいたのかと。するとその列の後ろに一人の男がいました。

その男がなんとあのガルペだったんです。

来ましたね、久々登場のパードレ・ガルペ。一緒に日本へ渡ってきた後別れて音信不通になってきた同志ですよ。「マジかよ。ガルペ生きてたのか!話したい!どこで捕まったのか?何を考えてここまで来たのか?と。」

そんな中、三人の囚人たちは薦を身体に巻き、まるでミノムシのような状態になります。そして小舟に乗せられて沖へ行くんですね。

ロドリゴはその様子をただじっと見ています。すると通辞は言います。「パードレならあの三人を見殺しにすまい。ガルペが転ぶといえば三人は助かる」と。

ミノムシ状態の三人は次々と海に落とされていきます。ガルペは海に飛び込み小舟を追いかけますが、もうどうにもなりません。海に飲み込まれ、そのまま戻ってくることはありませんでした。

通辞は「どうだ見ろ、パードレ達の身勝手な行動のためにどれだけの血が流れ、命が落とされたか。ガルペはまだいい、だがお前(ロドリゴ)はどうだ。何もしないただの卑怯者ではないか」といい、ロドリゴに追い打ちをかけます。

ロドリゴに思いがよぎります。「神は本当にいるのか?もしいないとするならば私の人生はなんと滑稽なことか?神に人生を捧げ、命がけで日本にやってきたこの人生はなんだったのか?」と。何もせずに沈黙を貫く神に対し、ここまでの思いを抱くほどになってしまうのです。

■フェレイラとの再会

ガルペの殉教からされに時は経ち、通辞に「会わせたい人がいる」と言われたロドリゴは籠に乗って出かけます。向かった先はとあるお寺でした。

「井上様の計らいでな、もうそろそろ会わせてもいいということだ」

こう言われ、部屋に入ってきた黒い着物姿の男こそ、今度こそフェレイラでした。

ついに、ついに会えたんですね。長かったですね〜ここまで。皆さん忘れてるかもしれませんが、そもそもロドリゴが日本に来たのはフェレイラに会うためでしたからね。でも、「会えて嬉しい!」ではありません。様々な複雑な感情がよぎるんですね。

そしてフェレイラは近況を話します。沢野忠庵という名前をもらって一年ほどここに住んでいること、天文学や医学などの西洋から来た書物の翻訳をしていること。それに続いて「私はこの国の役に立っているのだ」といいます。

通辞はそれに合わせるようにこう言います。「沢野殿は、キリシタンの教えの誤りや、不正を暴く書物の翻訳もしているのだ」と。

えーーー!?それ言っちゃいます!?って思いますが、たしかにフェレイラの口からは言いづらいですよね。

フェレイラは今日の面会の理由について重い口を開きます。「お前が転ぶように説得してこいと言われてここへ来た」

もうロドリゴさん、踏んだり蹴ったりですよね。親しくしていた信徒は次々といなくなり、ガルペも死んでしまい、やっと会えたと思ったかつての師匠のフェレイラは棄教してキリスト教を批判する本の翻訳させられた上で、そのフェレイラに「お前も棄教しろ」と言われるんですよ?どんだけ地獄絵図なんだっていうね。エヴァンゲリオンのシンジくん張りにいじめられまくっているというね。「もうやめて!ロドリゴのライフポイントはゼロよ!」って叫びたくなりますよね。

フェレイラは自分の耳の後ろを指差します。私は「穴吊り」を受けたと。

A・NA・ZU・RI☆キターーーーー!!!!!!!!

今まで何度も聞いていた穴吊りの詳細がここで明らかになるんですね。フェレイラいわく、穴吊りとは穴の中に逆さに吊られ、耳の後ろに穴を開けられ、そこから一滴一滴血が滴り落ちるようにするという、もう、人間はどうしてこうも恐ろしいことを思いつくんだって言いたくなる内容の刑です。

フェライラは言います。「20年日本で布教したが、敗北した。この国にはキリスト教は根を下ろさない」と。ロドリゴは「あなたの働きは輝かしいものだったはず。根は確かに下ろされた。その根は切り落とされたんだ」と。

するとフェレイラは言うのです。

「この国は沼地だ。どんな苗も沼地では根が腐る。この沼地にキリスト教という苗を植えてしまったのだ。」

きましたね。この『沈黙』で最も有名なセリフの一つが。ある意味象徴的な文言だと思いますし、多くの日本人クリスチャンが共感できるであろうセリフですね。

ロドリゴはこれに対し「かつては日本でも苗は伸び、葉を広げたはず。フランシスコ・ザビエルの時代がまさにそうだったではないか」と反発します。

しかしフェレイラは言います。「その信仰はキリスト教の教えとは違ったのだ」

「日本人はデウス(神)を仏教の「大日」と混同していた。我々が信じる神を自分たち流に屈折させ、変化させ、別のものにしたんだ」

「彼らの信じていた神は蜘蛛の巣にかかった蝶のようなものだ。外見だけは蝶だが、実際は実態を失った死骸なのだ」

それでもロドリゴは「私はこの目で殉教者を見たんだ!」と訴えます。

それに対しフェレイラは「日本人は神の概念を持たない。人間を超えた存在を考える力も持っていない。人間を美化し、拡張したものを神と呼ぶのだ。私が20年間で掴んだものはそれだけだ。この国にはどうしてもキリスト教を受け付けないなにかがあったのだ」

ここ、刺さりますよね〜日本人クリスチャンなら誰もが一度は考えたことがあるはず。なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか?というね。作者の遠藤周作の言いたいことがこのセリフに集約されている、そんな気がします。

フェレイラとの面会を終えたロドリゴですが、もちろんフェレイラの言ったことを受け入れられません。自分は確かに見たんだと。大切に信仰を守り続けている農民たち。モキチやイチゾウ、ジュアンにモニカといった殉教者たち。日本人がキリスト教を受け付けないなんてありえないと。

フェレイラは殉教者たちの話題には触れていませんでした。自分をただ転ばせようと説得していたのです。それはきっと転んでしまった自分の孤独や弱さを分かち合いたいと思ったからに違いない。きっとそうだ。そう思うんですね。

■ロドリゴの葛藤、そして・・・

フェレイラと会った後、通辞がやってきて「形の上で転ぶと言えばいいんだ」といつもの調子で言ってきます。ロドリゴは「なぜ私を穴吊りにしないのか」と。それに対して通辞は「井上様からはできるだけ教え諭せと言われている。拷問は避けるようにとな」と答えます。

これを聞いたロドリゴは、もはやこれまでと察します。これ以上先方は諭しには来ないのだと。そして拷問を受ける覚悟をするんです。

ロドリゴはその後市中引き回しをされます。馬に乗せられ街中を歩く自分を、エルサレムにロバに乗って入ったイエスに重ねながら。そして群衆の中にどこかで見たような顔を見つけるんです。

もうおわかりですよね、そう、キチジローその人です。


まーたおまえか


いやもう、これ以上突っ込む言葉を思いつかないので何も言いません。キチジローはロドリゴの跡をついていきますが、それを見たロドリゴは「もういい、私も主もお前のことを怒っていない」と思うんですね。

奉行所に着き、その日の夜のこと。どこからかいびきが聞こえてきます。「番人が酒によったまま寝ているのだろう」と、少し笑います。しかしそれと同時に死への恐怖が襲ってきます。

そんな中、役人の怒鳴り声が聞こえてきます。すると、「頼む、パードレに会わせてくれ。パードレ、許してくだされ。告解させてくれ」というキチジローの声がしました。会いに来たんですね。ここまでくるとキチジローはイジれません。その純粋さに感銘を受けてしまうレベルです。

もはや「またお前か」とすらいう気も起きません。ですがそれに答え、そっとロドリゴは告解の祈りを唱えます。

通辞がやってきたので、ロドリゴ位は「あのいびきは一体?」と訪ねます。通辞は「おいおい、あれはいびきとちゃうぞ」と突っ込みます。後ろに立っていたフェレイラが言います。「あれはいびきではない。穴吊りにされた者たちの呻き声だ」

そう。まさに今、すぐ近くで穴吊りの拷問が行われていたんですね。フェライラは言います。「かつて私も今のお前と同じ状況になった。呻き声を聞いた。自分も3日間穴吊りにされたが、決して神を裏切る言葉は言わなかった。転んだのは、神が自分に対して何もしなかったからだ」

なぜ、神は沈黙したままなのか?ロドリゴがずっと思い続けていたことを、フェレイラも考えていたんですね。

フェレイラとロドリゴは言い合います。「お前は自分が大事なんだ、お前が転べばみんなが助かる。教会を裏切り、汚点となることを恐れているのだ」「キリストがここにいたら、彼らのために転んだはずだ」と指摘するフェレイラに対し、ロドリゴは「そんなことはしない!」と手で顔を覆います。「頼むから、これ以上私を苦しめないでくれ」・・・

そしてついに、踏み絵が用意されます。粗末な板に粗末な銅のメダイがはめ込まれた踏み絵。見た目こそ貧相ですが、ロドリゴが「この世で最も高貴で美しいもの」と信じてきたものを、今まさに踏もうとしているのです。

その絵に顔を近づけたあと、足を上げます。鈍くて重い痛みが足に走ったその時です。踏み絵のイエスが語りかけてきます。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」

こうしてロドリゴは絵を踏むに至ったのでした。

■踏み絵の後日

ロドリゴは「転んだ」後、出島の奉行所で輸入品がキリシタン関係のものかどうかを判別する役割を担いました。

通辞や役人は、かつてとは異なり、普通に、普通どころか丁寧に接してきます。フェレイラとは自由に会うことはできません。合えばお互いに憎悪や侮蔑、一方で憐れみの気持ちが芽生えるのでした。

ロドリゴは井上のすすめで「岡田三右衛門」という名をもらい、更には日本人の妻も娶りました。もう完全に「パードレ」ではなくなったのです。

そんな折、キチジローが訪ねてきます。「告解を聞いてほしい」と。「私はパードレではないから」というものの、結局は聞いてあげます。

ロドリゴを売り、踏み絵を踏んだ自分の愚かさ、弱さを告白します。

ロドリゴはあの日、踏み絵を踏んだ日のことを思い起こします。

「主よ、あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」

「あなたはユダに、去ってなすべきことをなせと言われました」

「私はお前に踏み絵を踏むがいいと言っている、それと同じことをユダにも言った。お前の足が痛むようにユダの心も傷んだのだから」

その時のことを思い起こしながら、キチジローに秘跡を与えたロドリゴ。

そして、自分はイエスへの信仰を捨てていないこと、そしてこの国に残された最後の司祭であることを自覚するのでした。

■おわりに

というわけで、長きに渡りました『沈黙』のあらすじ編はここで終了です!

非常に重い、そして考えさせられる作品だったと思いませんか?

端折った概説ですが、概要はきっちりとご説明できたのではないかと思います。次回は本シリーズの完結編、自分なりの感想と考察をお送りいたします。

というか、実質次回が本編ですね。(笑)

それではまた!

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