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ワンオペ育児は抑圧である。

ワンオペ育児は社会的な抑圧なんだろうな、と最近考えている。

子育ては楽しい。
けれど、その負担量が膨大なため、とても大人ひとりで担えるものではないのだ。

いまは人口に膾炙しているこの「ワンオペ育児」という言葉、調べてみると、2015年ころからネットで使われ始めたようだ。
流行語大賞にノミネートされたのが2017年。*1
「ワンオペ育児」という言葉のなにが画期的だったかって、当事者コミュニティの外にその負担を可視化したことだ。
それまでは、当事者以外には、「子育て=幸せ」「子育て=楽しい」というイメージが一般的だった。

いまでは、少なくともネット上では、「ワンオペ育児=辛い」という認識が当たり前となっている。
ただ、そこで認識が止まっていて、
「ワンオペ育児は辛いけれど、子どもを産んだ以上、(特に母親にとって)当たり前の現象である」という無言の常識が横たわっている。
いわゆる自己責任論のひとつだ。

けれど、本当にそうなのだろうか。
ワンオペ育児は、子どもを望んだ以上、自己責任として当たり前のものなのだろうか。

私はそう思わない。
ワンオペ育児は、女性というマイノリティーに対する、社会的な抑圧だ。

ワンオペ育児を抑圧として認識することに罪悪感を抱く人もいると思う。
だって、負担量は膨大だけれど、子どもは可愛いし、発見であふれているし、楽しい一面も間違いなくある。

ただ、どんなに小さき生き物が可愛くて、日常が楽しくても、
そこのところは切り離して、抑圧は抑圧として別個に認識しなければいけない段階にきていると思う。

2010年代、「ワンオペ育児」という概念がうまれた。
2020年代は、「ワンオペ育児は当然のものではなく、抑圧であり、社会的に解決されるべき課題である」というふうに、
認識を一歩進める段階にきていると思う。

そもそも、ホモサピエンス20万年の歴史で、子育てとは社会全体で行うものだった。*2
男女関係なく働ける人間は働いて、お年寄りや身体を動かすことが難しいひとが、未来の社会構成員を育てる役割を引き受けた。
生産労働と再生産労働の能力による分担。そうしなければ集団全体が食っていけない。
そりゃそうだ。

「母親による密室でのひとりきりの子育て」がデフォルトとされている現代日本が、人類史からみると異常なのだ。

2021年現在、日本では、夫婦双方がよほど意識的に選択をして、かつ相当程度の幸運に恵まれていないと、
簡単にワンオペ育児に陥ってしまう。

「女性が子育てを担うべき」という社会的規範はいまだ強いし、
なんとなく「母親と子どもだけの密室の空間って大事」っていう風潮があるし、
男女の賃金格差がこれだけ大きいから、賃金の高い方(父親)が外で専属で働いた方が効率が良い、と個人レベルでは考えてしまうし、
保育園には入れないし、
保育園に入れても、関係のない第三者に「子どもが小さくて可哀そう」と言われて、罪悪感を植えつけられるし。よけいなお世話だ。

この、自動的に「ワンオペ育児」に陥ってしまう社会構造。
これが抑圧でなくて、なんだというのだろうか。

私はもともと、ド文系で社会学をかじったりして、「抑圧」の構造に人よりも敏感だったこと。
それから、子どもの産まれたタイミングとか、住んでいる地域とか、いろいろ相当程度にラッキーだったことが重なって、
いまは夫婦共働きで、保育園にお世話になりつつ、第一子を育てている。

ただ、育休中、一瞬だけ、ほんとうに一瞬だけ、ワンオペ育児をした。
あまりの負担の重さに唖然として、「これがデフォルトなら、どうして人類はこれまで生存し続けてこれたのだろう?」ととても不思議に思った。
この負担の重さ、日本が少子化まっしぐら、という状況になるのはとても納得がいく。
ただ、この負担の重さが人類史上20万年デフォルトだったのだとしたら、そもそも今日まで人類という種は生存できなかったのではないだろうか。
それくらい負担が重くて、孤独で、非効率的だった。

調べてみたら、なんのことはない。
このおかしなデフォルトは現代日本だけの特異な状況で、だから日本は少子化がとどまるところを知らないし、
かつては子育てという再生産労働は社会全体で負担するものだったから、人類はなんやかんやこれまで生存しつづけてこれたのだった。
そりゃそうだ。

「ワンオペ育児」がどんなふうに辛いかって気になる人は、自分で調べてみてほしい。
ネット上にいくらでも声は転がっているから。
ここでは、その辛さの先に、思考をもっていく。

「とりあえず外界に出て冷静な思考を獲得しなければ」という意志と、
もろもろラッキーが味方して、私は子どもが0歳のときに復職できた。
(ちなみに、「女性が子どもを育てながらキャリアを積み続けられること自体ラッキー」だという、それ自体がそもそも異常な社会構造にある、ことは付記しておきたい)
女性の強さとか、夫の理解力とか、そういう個々人の努力の範疇をこえて、構造自体がゆがんでいるのだ)
今は夫が時短を取得して、保育園の手を借りて、二人で生産労働と再生産労働を交互に担っている。

共働き子育ては、100点満点とはいえないけれど、「ワンオペ育児」に比べたら、まちがいなく最善の選択だ。
保育園の先生たちはプロ中のプロなので、公園につれていくしか能のないアマチュアの親二人と比べて、
あの手この手で子どもたちと遊んでくれる。
それに、子ども同士で遊ぶという、大人には絶対に与えられない経験が、保育園にはある。

余談だけれど、ときどき、「ひとりっこだと寂しくない?」という理由で、2人目を産むことを勧めてくる他人がいる。
子どもは子ども同士で遊ぶことが必要だ、という論点だ。

子どもは、対大人だけではなく、対子どもの経験が必要だ。それは同意する。
それなら、集団保育を進めればいいんじゃないだろうか。
どうして「ワンオペ育児」を放置して、女性を家庭に閉じこめて、それでいて複数人産ませるという、負担を増やす選択肢しか思い浮かばないのだろう。
息子は、保育園で、子ども同士で遊ぶという得難い経験を得ている。

話がそれた。
共働き子育てが思っていたよりも良いことだらけだったので、一周まわって、なんのために、「ワンオペ育児」に陥りやすい社会構造になっているのか、わからなくなってしまった。

子どもの発達に良いからだろうか。そんなことはなかった。
保育園が信用ならないからだろうか。そんなことはなかった。
母親ひとりで子育てを担うことが母親の幸せだからだろうか。そんなことはなかった。

そうすると、誰が、どういうメリットのために、この社会構造を設計しているのだろう。
「ワンオペ育児」という、子育てが得意な一部の人以外にとっては大変な選択肢が、なぜ今はデフォルトになってしまっているのだろう。

私は仕事を続ける強い意志があったし、
私も夫も、もともと考え続けることが好きだった。思考停止に陥らなかった。
本を読むことも好きなので、日本の育児神話の外からも情報を摂取することができた。
郊外に住んでいるので、ハードな保活もせず、普通に保育園に入園することができた。

ただ、これらの要素のひとつでも欠けていたら、きっと今でも私は「ワンオペ育児」を続けていただろう。
デフォルトの選択肢ってそういうことだ。

デフォルトの選択肢が、一部の属性の人間(この場合は母親)にとって、なぜか超ハードモードに設定されていること。
これって無痛分娩とよく似ている。

私は絶対に無痛分娩で産みたくて、意識的に病院を探して、無事にその願いをかなえることができた。
それを可能とする程度の経済的余裕があった。
反対する親族もいなかったし、反対する親族がいたとしても、議論でねじ伏せるくらいの意思とスキルがあった。

でも、これだって、そもそもデフォルトで無痛分娩が選べないのがおかしい。
歯を抜くときに麻酔しない人っている?
歯を抜くときに麻酔をしたいから、めちゃくちゃ頑張って情報収集をして、高いお金を払って、
そうしなければ麻酔無しで抜歯しなければいけない社会って、やっぱりおかしくないだろうか。

麻酔したくない人はしなくていいと思う。
ただやっぱり、麻酔することとしないことは、同等の選択肢としてまずは提示されるべきじゃないだろうか。

「ワンオペ育児」しかり、麻酔なし分娩しかり、
どうして女性に過剰な負担を強いる選択肢ばかりが、デフォルトになっているのだろう。

子どもの発達にはその方がよいのだろうか。
「ワンオペ育児」をして、麻酔なしで産んだ方が、子どもは幸せなのだろうか。
「子どもの幸せ>女性の負担」という優先順位のもと、「ワンオペ育児」や麻酔なし分娩がデフォルト選択肢となっているのだろうか。

私はいま、絶賛、小さな人間を育てている最中だけれど、
「ワンオペ育児」や麻酔なし分娩が子どもにとっての幸せかっていうと、全然そんなことないなぁ、というのが正直な感想だ。

実際、「ワンオペ育児」の時よりも、今の共働き育児の方が、子どもの世界はぐんぐん広がっている。
保育園で友人ができて、子ども本人もとても楽しそうである。
無痛分娩で産んだけど、子どもはありがたいことに非常に健康体だし、わたしも子どもが大変愛おしい。
どうやら「ワンオペ育児」も麻酔なし分娩も、子どもの発達や子どもの幸せには、さして関係なさそうだ。

そうすると、結局ひとつの仮説にいきついてしまう。
「ワンオペ育児」がデフォルトの選択肢であること自体、女性というマイノリティーに対する、社会的な抑圧なのだ。

この話、夫に話したら、「そりゃそうじゃん?」とあっけらかんと言われた。
身体的性別上、私よりも育児の外圧から距離のある彼は、最初からそう考えていたようだ。

でも、育児の外圧の嵐ど真ん中にいる私にとっては、快哉を叫びたい大発見だった。
だから書き記しておくことにした。


古代は首長までつとめた女性が、徐々に周縁に追いやられて、
近現代においてとうとう市民権まではく奪された(敗戦後にやっと与えられた)ことは、国立歴史民俗博物館「性差(ジェンダー)の日本史」という快挙が示したとおりである。*3

母親がひとりで子どもを育てるという塑像、
それは高度経済成長期以降において提示された、とても歴史の浅いものであるけれども、
その塑像がここまで影響力を持っていること。
そのこと自体が、2021年は近現代のどん詰まりなのだなぁ、と実感する「大発見」だった。
大日本帝国憲法で女性が臣民でなくなったことに始まる、
近現代の抑圧の煮凝りの象徴が、「ワンオペ育児」だったのだ。

育児とはつまり再生産労働だ。
社会の次世代の構成員を育てる再生産労働って、やっぱりとんでもなく負担なのである。

そりゃあ、権力を持っている側からしたら、
そのとんでもない負担を、権力を持たないマイノリティーに押し付ける方が、圧倒的に「楽」だ。
「子育ては母親がひとりで担うもの」という建前を作ったほうが、
男性は子育てについて考えなくてすむ。再生産労働から完全に開放される。
行政だって、保育園の整備という「面倒なこと」にリソースを割かなくてすむ。
自分には関係ないこと、として見て見ぬふりをすることができる。
「ワンオペ育児」は、圧倒的に「おっちゃんたち」が楽な仕組みなのだ。


余談だけれど、
私はSNSでよくみる育児エッセイマンガが苦手だ。*4
たいてい主人公の「お母さん」がひとりで子どもを育てていて、その大変さに疲弊しつつ、
子どもは可愛いから、と日常の尊さや愉快さを軽快なタッチで描く。

そこに「お母さん」以外の大人はほとんど登場しない。
男親や、祖父母や、「お母さん」以外の大人はとことん透明化されている。

私はそれらを目にするたびに、映画「ライフイズビューティフル」を思い出す。
ナチスのユダヤ人収容所で、子どもを生き延びさせるために、日々をゲームとしたお父さんの話。

母親たちが描くエッセイと似ている気がする。

ユダヤ人収容所においても、子どもはどうしようもなく可愛かっただろう。
太陽は美しかっただろう。
人間同士の交流に心あたたまることもあったかもしれない。

その日常のすばらしさは否定されるものではない。
どんな状況下にあっても、生き延びようとする人間の強さは素晴らしい。

ただそれと、抑圧は切り離して考えなければならない。
ユダヤ人収容所でたとえどれだけ得難い経験をしたとしても、ホロコーストはホロコーストとして、糾弾されなければいけないのだ。
人間が等しくあるために。

「ワンオペ育児」に悩む人に伝えたい。
「子どもは可愛いのに、どうしてこんなに辛いのだろう」と自分を責めてしまう人に伝えたい。

辛くて当たり前なのだ。だって抑圧なのだから。
子どもが可愛いこと、命が尊いこと、子育てに楽しいときもあること。
そのことと、社会構造としての抑圧は、切り離して考えなければならない。

抑圧を、抑圧として認識しよう。
「子どものため」「あなたのため」という大きな嘘から、まずは距離をおこう。

前述のとおり、「ワンオペ育児」という概念がうまれたのがここ最近のことだ。
「ワンオペ育児=辛い」という認識が共有されはじめたのだって、SNSが普及してから、ここ数年だ。

だから今こそ、認識をまたひとつ先に進めよう。
「ワンオペ育児」とは、社会的な抑圧である。
社会の抑圧だから、社会の構成員みんなの課題として、解決しなければいけない。

「子どもは母親に育てられるもの」という認識をあらためよう。子どもは、信頼できる大人、複数人のもとで育てられるものだ。
男女の賃金格差をなくそう。
すべての保護者が育休をとれるようにしよう。
保育園を整備しよう。
長時間労働をなくそう。
生産労働と再生産労働という視点をもち、再生産労働への敬意を払おう。(正直、子育て中は国から賃金が払われてしかるべきだと思っている。だって次世代の再生産労働に従事しているのだから)
他人ごとではなく、自分のこととして考えよう。

ひとつひとつ、課題は山積みだけれど、その分、変革が起きたときのスピードは速いと思う。

この記事が数年後には過去の遺物となっていることを願って。


*1 内閣府 https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/meeting/kokufuku/k_4/pdf/s1.pdf
*2 上野千鶴子、出口治朗『あなたの会社、その働き方は幸せですか? 』
*3 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p201006/
*4 NHK「母親たちはなぜマンガを描くのか」https://www3.nhk.or.jp/news/special/kosodate/article/feature/article_201214.html

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