見出し画像

依存と非行の末に

 シンナー中毒の生徒発見!夜中の呼び出しにより勤務先の学校に駆けつけました。閉鎖されているはずの屋上で奇声を発している男女1名ずつを発見。とりあえず、(まともに歩けなくなっている2人を両脇で支えて、保健室へ。歩いた後の廊下には、大小とも点々と排泄物が残されて、私はその処理係でした。

 保健室は入ってすぐに、息もできないようなシンナーの臭いで充満し、通常の人間は息もできないような状態になりました。とりあえず座らせた生徒2人とは、もはや会話も成立せず「エヘヘ」と笑ってばかり。開けた口の中に歯と呼べる物はなし。溶けて無くなったているのです。「これがシンナー中毒者の真の姿なのか」と、驚くばかりでした。

 完全に「ラリっている」状態は、酒に泥酔している状態を遥かに超えた、想像を絶するおぞましい状態だということを、この目で見ました。この他に、当時は全生徒の6割強がタバコを吸わないではいられないニコチン中毒で、学校の廊下は、天井が煙でぼんやり霞んでいました。ガラスが破られない日は、ありませんでした。校舎破壊も同様でした。

 これが、昭和60年代に若年化した状態で都会から伝播してきた「荒れた学校」の包み隠さぬ姿です。荒れは、伝染するかのように一部の生徒たちから学年に広まり、果てや入学前の小学生まで侵食されていきました。

 そして校内暴力が、頻発するようになり、多くの教師たちも被害者になりました。なぜか警察の出番はありませんでした。親や教師や地域の人々は、ただ指をくわえて見ているだけで、大人は弱体化していきました。

 タバコや化学物質、薬物等に依存して抜けられない状態になると、善悪の判断力も無くなっていくようでした。特に心の成長過程にある子どもたちは、この魔手を避ける力をもっていません。こんな学校に、新採用から3年間勤めました。貴重な経験でした。

 朝、出勤しようと車に乗り込みます。まずは一服とタバコを吸います。クラッチを踏み込み、マニュアル・ギアを入れるものの、ニュートラルに戻して、クラッチから足をはなして「もう1本」と、また吸います。「今度こそ」と思うものの、同じ動作を繰り返し、3本目。間に合うギリギリまで、そんな動作をするのが、日課となりました。

 かく言う私も、現実逃避する「依存」行為を繰り返していたわけです。自ら「なかなかスタートできない病」と呼んでいました。出勤して出会うのは、様々な形態の「荒れ」です。私は、鉄砲玉として行動するのです。行きたくないのは、当然のことでした。3本連続で吸って、車を発進させるのが、習慣となりました。

 短い通勤路を走りつつ、「喫煙者の教師が喫煙する中学生に何が言えるんだ?」などという結論の出ない、訳のわからぬ問いに包まれていました。しかし、駐車場に車をとめてエンジンを切ると、別のモチベーションが高まってきます。やってやろうじゃないかとか見て見ぬふりをすればいいなど、思いは交錯するばかりでした。

 ことようなずいぶん昔の経験を思い出したのは、4/20に行われた学校心理士会北東北支部の研修会に参加した時のことです。講師は、岩手県立大学の社会福祉学部の紀司先生で、テーマは「非行少年の理解と支援の在り方」で、副題が「若者が陥りやすい依存症に着目して」でした。

 何らかの要因から「脳がハイジャックされた状態」を依存症と言います。誰でもすぐに思いつくのは、麻薬・覚醒剤、アルコール等の嗜好品、そしてギャンブルなどの中毒症状でしょう。しかし、最近では乱用する対象が咳止め、風邪薬、痛み止め、鎮静剤、抗アレルギー薬、眠気防止薬など、医師の処方箋なしで買える市販薬になっているとか。

 噂話で、ドラッグストアで買える薬の大量服用で、麻薬風にラリることができると聞いたことがあります。人の悪知恵は尽きないものですね。最近は、スマホ中毒、ゲーム中毒などIT中毒者も増えています。つまり日常生活の中で、依存できる対象が山ほどある社会になっているのです。

 今は、シンナー中毒の材料となるトルエンの販売は、法的規制が定められています。麻薬や覚醒剤は、所持しているだけで罪を問われます。そうした法の隙間を掻い潜って、依存症は多方面に増加しています。全てをストップできないというのが、悲しい現実です。

 しかし、依存症による少年非行を、現実世界で見た経験がある私の心は、講義の学問性が高まっていくプロセスで、何かシラけた感覚になっていきました。シンナーの強烈な臭いと糞便の臭いを、同時にを嗅いだ経験があるからです。「百聞は一臭に如かず」などと嫌味ったらしい感情が出てくるからです。

 ですから、私のニコチン中毒の過程を述べた方が、これから薬物に手を出そうとする若者たちへの僅かなブレーキになり得ると考え具体化的な経験談をしてみようと思います。

 高校生の時は、未成年者飲み会も徹夜麻雀もしていましたが、なぜかタバコだけは手を出しませんでした。大学に現役合格していれば、タバコとは縁のない人生だったと思います。しかし、浪人時代に始めたパチンコの景品交換率が、一番高いのがタバコでした。家から飛び出して、東京の格安アパートでの一人暮らしは、相当なストレスで、結局逃げ場となったのは、パチンコとタバコでした。

 それから四半世紀以上の日々、1日にセブンスター2箱40本を吸い続けました。タバコをやめようと決心したのは、アラフィフの頃です。正月の教え子の歳祝いの会で、「そろそろやめなさい」と言ってくださった一番尊敬する先生が、2月になってすぐに大動脈瘤破裂により亡くなりました。遺影に対面し「タバコはもうやめます」と誓いました。既に軽度の肺気腫と言われていました。

 何らかの禁煙補助の物品もなしに、お葬式の日に、いきなり喫煙をストップしました。それからマスク生活が始まりました。喫煙により、脳が窒息を快感と感じることを知り、分厚い布マスクによって、軽度の窒息状態で生活し始めました。重症を自覚しました。

 頭の中の99%がタバコのことになってしまい、仕事も散漫で、ミスばかりになりました。眠れなくなり、授業中に立ったまま居眠りするまでになりました。そして、最終的に味覚鈍麻に陥りました。全く味を感じないのです。何を食べても砂のように感じるのは、マスクにより嗅覚も衰えたせいです。

 文字通り、砂を噛むような食生活は、半年も続きました。体が窒息を求めていました。しかし、後戻りはできません。それをなんとか克服できたのは、ノートに吸わなかったタバコ代の累積額を毎日書いていったからだと思います。吸わない理由を、金銭的負担を減らすと割り切るのは、大変でした。

 禁煙を妨害するのは、主に飲み会でした。ふざけて煙を吹きかけてくる奴もいました。しかし、頑として手を出しませんでした。禁煙は、成功しましたが、タバコの煙の匂いの魅力に、引き込まれそうになりました。

 禁煙とも無縁になったのは、何年も後、タバコの煙が悪臭と感じるようになってからです。また、嗅覚が鋭くなりました。50mも離れた場所のタバコの臭いを感知できるようになりました。五感の1つが完全復活したのは、生きとし生けるものとして喜びでした。

 それから10年後、激しいクシャミと同時に、右胸に激痛。気胸と診断され、入院、手術となりました。肺の中の空気袋が落下して呼吸困難になりました。タバコのせいで肺の中の皮膜がボロボロになり自然治癒は不可能と判断されたのでした。

 飛び込んだ救急治療室で、CT検査後、背中の下から太いチューブを差し込み、水の入ったボコボコ音がする装置に繋げられ、鼻には酸素吸入器。病室内のトイレに行って来た後は、呼吸困難状態にしばらく耐えなければなりませんでした。全身麻酔で手術し、袋を肺の中上部に接着してもらいました。

 ニコチン中毒でさえ、こんな苦痛との闘いでした。依存症は、不幸です。どうか、あなたのの人生が台無しになりませんように。依存するなら、物ではなく愛する人にしていきましょう。さて、長々と失礼しました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?