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サヨナラ

 生まれ育った田舎に戻ることになった。昨年度から、2校目の全校生徒160名余の新潟県最北の中学校で、平穏な2年目を過ごしていた。林業の町で、校舎は新築数年目の杉の木満載の贅沢な建物で、何と、体育館の天井の骨組みまで曲げ木とか言う珍しい木造工法で、竣工時は県内外から視察団が多かったと聞いた。教室は、自由自在の可変式で、時に応じたスペースができる便利さだった。

 地獄から天国に来たというのは、決して大げさな表現ではなかった。そんな素晴らしい環境を満喫していた平成元年。友人から、受かりそうだとの連絡があり。しかし、初めての中3担任と県大会レベルの部活等々を言い訳にして、採用試験の受験勉強など、全くしなかった。何を今更という気持ちだった。

 2校目の学校から実家まで110km。そんなに近い場所にしてもらったのは、父の病気が癌だったからだ。そんな手厚い配慮も頂いているので、ポーズのつもりで採用試験を受けた。専門教科の国語の問題。結構分厚い冊子の1ページ目が何と運命の漢文だった。全く意味不明の問題だった。もはやこれまでと、冊子を閉じた。そして、今付き合っている彼女と結婚しようとも、思った。

 しかし、二次試験の通知が来た。受験番号1番。消印有効の〆切日に出したのに、1番だったのだ。ほとんど記述しなかったのに、なぜか一次試験は通過した。校長の推薦状の効力だと思った。またもやマグレ当たりが発生した。運命という単語が、頭に浮かんだ。

 二次試験は、まずはクレペリン検査。そして、面接があった。まずは、5人ほどの集団面接。メンバーは、東北各地の別々の県からであった。面接は、こんな発言で中断した。

「私は、年齢制限が今回限りなんです。何とか、ご配慮の程をよろしくお願いします。」
「私もそうなんです。」
「実は、私も」
「私も......何とかお願いしたいので.....。」

 どうやら、自分以外の4人が同様の境遇らしい。やはり、なかなか地元に帰れなかったんだなと思った。なんだか居心地が悪くなった。度重なる懇願は、冷たく制止された。

 次は、個人面接。面接官は、まずニヤリと笑った。そして、こんな面接が始まった。

「新潟と言えば、コシヒカリだねえ」
「はあ」「私はササニシキの方が好みです」
「越乃寒梅は、美味しいかね?」
「水のようで、好きではありません」
「じゃあ、何が美味いかね?」
「久保田とか佐渡の北雪とか.......。」
「蕎麦はどうかね?」
「奥只見に行く途中の黒い蕎麦とか.....。」
「いい温泉は?」   

 時間いっぱい、こればかりだった。その時なぜか、合格を確信した。元教員とはいえ、県の役人さんたる人が、冗談で面接試験はしないだろう。実家に戻り「まあ期待しないように」と言い残して、勤務地に戻った。

 合格通知が、普通ハガキで来た。勤務する学校名まで書かれていた。宛名の字が、ギャル文字なのには、呆れた。こういう文書は、通常は封書の親展扱いなのに、郵便配達の人さえ読めるハガキだったのだ。それを目にして、怪文書だと思ったくらいだ。

 それを渡してくれたのは、事務職員さんだった。話は、狭い町に、あっという間に広がった。生徒たちも、伝え聞いていた。どういう表情をすればいいのか、わからずに困惑していた。「裏切り者!」と言われるかもしれない。校長も、無表情で「おめでとう」とだけ言った。マグレ受かり癖が伝播したせいなのか、高校入試は、60名全員が合格した。

 3月29日、赴任する学校に行った。オール・ウッドの校舎だった。しかし、タイム・スリップ感覚になった。教頭が、校舎内を案内してくれた。歩くと廊下がギシギシと音を立てた。ずいぶんガラガラ声の鶯張りだと思った。そして、2階の一室に入って、

「この教室です」
「学級増で、倉庫を改造したのですか?」
「いいえ。前からずっと、普通教室です」
「そうですか。失礼しました」

 教頭は、ムッとした。また、余計なことを言ってしまったと思った。しかし、眺め直しても、倉庫か物置にしか見えなかった。ボロ校舎に加えて、生徒用の机の表面に光沢はなく、あちこち穴が開けられていた。「荒れ」の雰囲気がした。またかと思った。

 特殊学級の2クラスを入れて、全部で26クラスの大規模校だった。初任校と同じぐらいだ。コンクリート造りの廊下を歩いた。かなり臭い。それもそのはず。トイレは、昔ながらのポッチャン型だった。親切にも教頭は、ポッチャン・トイレのお釣りについて、その被害防止方法を教えてくれた。着水音がしたら、腰を浮かすそうである。

 引越しは、部屋にある物を思い切って、新品以外は捨てた。一番大きな荷物は、愛用のエレキベースとクラシック・ギター。何というシンプル・ライフ! 一人暮らし10年分を捨て去った気持ち良さを、味わった。

 学校からは、粟島と鮭が遡上する小さな川が見えた。次の学校からは、何が見えるのだろうか。同じ日本海側の裏日本。空色は同じでも、新天地に行くのだ。今度は、勝手知ったる我が故郷。知っている人が多いのも、きっとうんざりするだろう。

 さよなら、新潟。ドライな人が多くて好きだった所だ。今度は、きっとウェットな人間ばかりなんだろうなあ。そんなネガティブな思いを抱いて帰郷した。

 1ヶ月余、29歳になった。そこには、いろいろなことに落胆している自分がいた。退職金なしの継続人事なのに、何で給料が5万円も下がるんだ?きっと貨幣価値が違うのだろう。きっと物価が極端に低いのだろう。そんな絵空事ばかり思うようになっていた。また、何かに束縛されている自分を感じた。

 もしかして、ここに死ぬまでいるのかと思った。何の決意も覚悟もしていないのに。

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