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キョウモ オサケガ

 マンモス校職員全員での宴会は、大座敷を連ねた場所で行われた。総勢60名以上を受け入れられる場所は限られていて、学区内には2軒しかなかった。1人に1つのお膳が用意されて、必ず個別の鍋物が付いていた。

 昭和60年代は、校務員も含めた全員参加の宴会が、2ヶ月に1回行われていた。当時の月給は現金払いで、手取りが10万円弱。車のローンで3万円、アパートの家賃や光熱費等が3万円。すなわち、残り3万円が1ヶ月の生活費の現実だった。

 4,000円会費の宴会の後の生活は、ちょっとした飢えを伴った。それだけではない。大食いっぱぐれに遭遇するのだ。残念至極な話になるが、同情などしてほしくない。長い教員生活の初めの3年間に、貴重な経験ができたことは、幸いだと言っておきたい。

 職員全員参加の宴会は、遅刻厳禁!予定時刻ちょうどに司会者役が、開宴を宣言する。その際、座布団を後ろに寄せて正座する。それと同時に各膳の小鍋に点火される。その完了を見届けて、「校長先生のお話」のアナウンス。全員、畳の上に正座したままである。

 校長に注目する姿勢になるが、実際は、斜め前のお膳の小鍋の火を見つめるのだ。少しだけ頭が低くする。そして、視線は小鍋の火に集中する。まだ室温状態の鍋が熱せられ、そのうち蓋の穴から水蒸気が出始める。

 いずれは沸騰状態になり、限りある火種はいつしか消える。そして、徐々に鍋の中の温度は下がり、最初の温度近くまで下がる。その推移をじっと見ながら、正座の苦痛も限界に近づく。その間、約30分間。漢文や◯◯勅語のような訓話は終わる。

 司会者が、膝を崩し、座布団の上に座るよう促す。足は感覚を失っていて、危うくお膳に突っ込みそうになるが、両手で何とか支えて、座布団にアグラで座り、自由を感じる。各自ビールを注ぎ合い、司会者が乾杯の発声を教頭に依頼する。職員をねぎらう前置きの話の後、キレある口調で「乾杯」を告げる。

 両隣とコップを合わせて、一気に飲み干して空にして、文字通り乾杯する。司会者が、「ご歓談を......。」と告げると同時に、20代は一斉に立ち上がる。上座に座る人たちにビールや酒を注ぎ、説教や小言を聞く。これを、延々と繰り返す。自席には、戻れない。

 そして時は過ぎ去り、閉会の時間が告げられる。自席に戻る。〆の乾杯なれど、ビール瓶に中身はない。空のコップを差し上げて、閉会となる。上座から退席する。下っ端は、起立して見送る。宴会場の使用時間は決められており、下っ端も退場する。午後9時になっている。箸ひとつ着けていない料理を見て退席する。空きっ腹が、グーと鳴る。

 タクシー乗り場で、お偉いさんたちを見送る。それが終わるのを、ひたすら待つ。終わった瞬間、猛ダッシュで行きつけの定食屋まで走る。男も女も走るのだ。午後9時半。餃子をメインディッシュとした若者の会が始まる。急いで乾杯し、まずは空きっ腹を何とかする。そして、若い順に飲まされる。酒が回ってきた頃に、誰かが歌い始める。全員の手拍子や合いの手が加わる。

🎵今日もお酒が飲めるのは、◯△さんの〜
おかげです。◯△さんよ、ありがとう〜◯△さんよ〜ありがとう🎶

 これが一周するまで延々と続く。全員終わると、全員がニコニコ・モードに激変する。そういう飲み会では、文句や悪口など絶対出ない。誰かが、一芸披露することもない。箸が転がっても可笑しいというようなトランス状態になるから、爆笑に次ぐ爆笑である。

 会費はない。最初の3年目以内の教職経験の最若造は、無料。帳尻合わせの計算スペシャリストが、※さん、◇さん2,000円。€さん、@さん1,500円と告げていく。会費制にしても大した勘定ではなかった。しかし、全員宴会後の飢えを迎える者にとっては、ありがたや、ありがたやであった。

 超理不尽な世界かもしれない。しかし、救う神ありで、もっと上の先輩教師の場合、いい物食って、上等の酒を飲ませてくれた。繁華街のカクテルバーで、ドライ・マティーニを2杯続けて飲んで、潰れたこともあった。

 職員全員参加の飲み会に、タッパーを持って行こうかと考えることもあったが、先輩の「やめておけ」で思いとどまったこともあった。食うのに必死の教員生活。最初の3年間は、追加出費は、ほぼゼロであった。

 2校目から、「奢りぐせ」と呼ばれる症状が出てくることになる。後輩に、飲み代なぞ払わせない。そんな信条は、退職するまで持ち続けた。カッコいいとも当然だと身思わない。単に、財布の中身が寂しくなるだけだ。

 奢るからといって、小言など言わない。酒が不味くなることは、徹底的に排除して楽しむだけなのだ。少し嫌がられたことは、二次会は必ずカラオケに行くことだった。いつもワンパターンなので、後輩は飽き飽きしたと思われる。

 まずは、定番「新潟ブルース」である。そして、お茶汲みを命じた1年主任の愛唱曲の「霧子のタンゴ」。1年主任は、翌年若くして教頭に昇任。しかし、46歳で不治の病で亡くなった。レクイエムのつもりで、必ず歌った。お年寄りにウケて、若者たちはポカンとしていた。ラストは松山千春の「長い夜」で、ステージから降りて一人一人握手して回るスターの真似をして終わり。

 そして「老兵は立ち去るのみ」と言い、タクシーで帰る。もちろん、多めにお金を渡すのは忘れない。このパターンは、40代になって始めた。初任校の真逆を目指していた。後輩からもらったニックネームが、気に入っている。

「歌って踊れる教務主任」だそうだ。


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