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都落ち

 奴と私は、特急はつかりの車内にいた。下り線である。空いた車内の座席を対面スタイルにして、2人は、向かい合わせに座っていた。会話は、なかった。ただ、外の景色の流れを見ていた。

 受けた大学の合格発表は、ためらわず全て見に行った。自分の受験番号は、1回も見なかった。50倍以上の競争率を克服するのは無理だった。W大学など、自分の受験番号の前後100人以上がなかった。

 京都のR大学の結果は、バイトの電報に頼み、早々に不合格が決まっていた。後に、雨後の筍のように大学が激増するが、我々は間に合わなかった。2度目の共通一次は、現役の点数から60点も低い結果だった。私立文系に変えたのだから、当然だ。

 残すところ、駅弁大学を受けるしかなかった。盛岡駅に到着。翌日には二次試験があるのに、駅から距離のある繁華街まで、わざわざ飲みに行った。泊まる場所まで、街灯もろくにない道を歩いて行った。

 暗い道すがら、つま先に固い石ころの感触を感じた。急に腹が立った。石を拾って、唸り声を上げて、暗闇に投げ込んだ。窓ガラスが割れる音がした。全力で走って逃げた。後ろから人の声は、なかった。

 翌日、歩いて受験会場に行った。昨日通った道の途中に、農機具の小屋があった。道路に面した戸のガラス1枚が割れていた。近くに人の気配はしない。ちょっと頭を下げてから、通り過ぎた。

 珍妙な受験だった。隣に座ったのは、真っ赤な綿入れ半纏をきた女の子。高村光雲の描いた絵に出てきそうな趣きだった。縁起担ぎなのかと思ったが、室内の受験生たちの服装もどこか違和感があった。みんな宮沢賢治の雰囲気なんだと勝手に決めつけた。

 最初の試験は、英語のリスニング・テストだった。これ以上の訛り言葉はないと断言できるぐらいの年老いた試験官の話は、意味不明。隣の赤い子は、何度もわかった仕草をした。試験官は、解答用紙を配布後、「では、ハンジメマシュ」と言うと、ラジカセのボタンを押した。

 ネイティブの英語は、非常に聞きやすかった。米語ではなく、英語そのものだったからだ。試験官の日本語とテープの英語に逆転現象が起きたようだった。リスニング問題は、全問正解のはずだ。

 後は、小論文の試験だった。二次試験は終わった。外は寒そうだ。中村雅俊がドラマ中で来ていたのと同じマウンテン・パーカーを羽織った。60/40の感触が、心地良く、灰色の空の下に出た。

 テレビカメラが向けられ、女性アナウンサーと思しき人が、マイクを向けてきた。最初に「どちらからいらっしゃいましたか」と聞いてくるので、「東京です」と条件反射的に答えた。「東京から落ちてきました」という意味で答えた。何かが終わった。それは、人に言うことではない。

 ここには、学生街の喫茶店もない。神田川は流れていない。バーボンを飲むペニーレインもない。ボートハウスのトレーナーを買っておけばよかった。後悔の「悔」は、りっしんべんだった。いろいろ思いを連ねていると正門まで着いた。

 振り向くと、大学の建物が見渡せた。共通一次を受けた東京郊外の大学とそっくりだ。こんな類似した建造物は、昭和30年代に流行したそうだ。それぞれの大学の個性など建物に反映しないよう、わざと同じような構造や色合いにしたとしか思えない。

 盛岡駅まで来たものの、切符の行き先は決まっていなかった。どこへ行こうと、浪人生活になるのだろう。姿見の鏡があった。髪は肩を通り越して伸びっぱなし。栄養失調の見本となる痩せた風貌。まるで浮浪者みたいだった。行き先は、決まった。1年間帰らなかった家に向かう列車の切符を買っていた。

「後日談」
 盛岡の駅弁大は合格を新聞で知った。同時に、A大学の補欠合格通知が届いた。



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