見出し画像

オチャクミ

 新採用2年目も学級担任にはなれず、またもや学年所属の使いっ走りだった。それが、通常のルールだとばかり思っていたが、単なる思い込みだった。他校の新採用同期のほとんどは、学級担任2年目を迎えていた。

 今度は、1年部。学年主任を筆頭に、総勢11人。学年所属は1人だけになった。最初に学年主任に命じられたのが、朝のお茶汲みだった。これには、驚いた。学年部の誰よりも早く出勤して、一人一人にお茶を出せというのだ。昨年度は、2校目の女性教員の役割で、新採用の男2人は、朝から巡視役。今とは環境が、まるで違っていた。

 学級担任には、年上の新採用がいた。何度目かのチャレンジで採用に漕ぎつけたそうで現場経験は5年目だそうだ。既に妻子持ちであり、落ち着いた風貌だった。その新採用にも、お茶を出すと、軽く頭を下げた。

 ここでムッとするのは、かえって自分をみじめに感じると思い、引きつった笑みを返した。そこを少し我慢したことで、お茶汲みへの嫌悪感はほどけて、気持ちも一新した。

 彼の湯呑みは、底に名前が書かれていた。しかし、ほとんどの湯呑みやコーヒーカップには、名前がなかった。書いてくれなど言えるはずもなく、覚えるしかなかった。湯呑みは、お寿司屋さん風もあり、コーヒーカップもあった。間違えることも多くて、湯呑みと持ち主と一致させるのに意外と苦労した。

 お茶の淹れ方など、知らなかった。女性の用務員さんが持ってきてくれるポットのお湯は、熱湯だった。煎茶を急須で淹れたが、お茶っ葉の量も影響して、「苦い!」と言われて淹れなおすことも、しばしばであった。それを屈辱と感じるのは、弱虫として恥さらしなことだと、自分に何度も言い聞かせた。

 そして、毎朝のお茶汲みはルーティン・ワークになった。午前7:30、スタンバイ完了。次々と出勤して来る学年部職員にお茶を淹れて出す。全員終わるまで、丸いお盆をウエイター・スタイルで待機している。やるなら、ちゃんとやるんだ。母の教えであった。

 学級担任が休んだら、当然補充に行く。牛乳給食だったので、弁当が必要だ。生徒と一緒に食べるのだから、出前で親子丼というわけにはいかない。

 かと言って、先輩たちが注文している仕出し弁当(¥500)にする財力もない。昨年度の3年所属の時は、まともに昼食を食べる時間もなく、学級補充の役であっても、牛乳だけ飲んでごまかしていた。しかし、今度は小学校7年生との対面なので、目の前に弁当がないと格好がつかない。

 弁当作りが、始まった。と言うよりも、残り物を弁当にする都合上、自炊生活が完全復活した。いつもの定食屋に行くのは、激減した。土曜日の昼食を、この店の出前にしていたので、行くタイミングがなくなったのだ。

 弁当の旨い不味いは別にして、アルマイトの容器に詰め込まれた弁当の美感ゼロ。小学校の時の弁当を隠しながら食べる子の気持ちが、わかったような気がした。そして、少しだけ本物の教師にも近づいたのだと、勝手に思った。日頃の笑顔が、急に増えていった。

 厳しい現実に直面しての笑顔なので、価値あるものと、自己流に解釈していた。授業の割り当てでも、数合わせに使われた。週に4時間ある国語の授業。通常は、自分の学年を4クラス担当するのが、標準的であった。それが国語科教師の不足から、1年生が2クラス、2年生が2クラス、その上3年生が1クラスの担当にされてしまった。

 経験者しかわからぬことであるが、単純に国語を5クラス担当するのは、キツい。しかも、入試を控えた3年生1クラスでは「お前のせいで国語の点数が下がったら、一生恨むからな!と脅し文句まで言われた。何も言い返せなかった。国語の先輩教員たちからのアドバイスは、何もなかった。3冊の教科書の存在が、ズシリと重く感じた。

 目の前に、思い出したくない光景が浮かんだ。1ヶ月前の高校入試の合格発表の日に見た光景だ。男子生徒がひとり、家路に向かっていた。初回の授業で助け舟を出してくれた彼だった。その時、声をかけられなかった。

 某進学校の合否確認で確認が終わって見直しをしている最中だったからだ。名簿には、受験番号と氏名が記されていた。彼の名前の横には、バツ印が付いていた。書面での機械的確認と現実が交差して一致した瞬間だ。

 彼はしっかり前を向いて歩いていた。すぐに、涙腺が決壊した。しかし、メソメソせずに急いで戻って正しく報告しなければならなかった。不合格者数もマンモス級であることに、驚いた。1クラスに5人の不合格者。計40名まで達した。何ともやるせない気持ちを紛らわす手段は、なかった。

 担当する生徒全員の運命を背負っていることが、ズシリとのしかかっている重い責任を感じた。下手くそ授業を何とかしたいと、国語科の先輩に相談した。

「国語で学力をつけるには......?」
「教科書を教えるのではなく、教科書教えるんだよ。国語の力は、知識の伝達ではつかないんだ。そこを理解できないと、何も始まらないし、何の力もつかない。わかる?」

 わからなかった。先輩は、後は「盗め」と言ったきり、何も教えてくれなかった。国語の授業ができるようになるのには、時間がかかった。それは、翌年度に学級担任になっても、わからなかった。行く道は、思っていた以上に厳しかった。

 3年目にして、お茶汲みは終わった。修行が終わったと、大げさに感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?