見出し画像

グールド考

 グレン・グールドというピアニストをご存知でしょうか。コンサートをしないで、録音ばかりしていた天才です。代表曲は、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」です。元々は、2段鍵盤のチェンバロ曲ですが、ピアノ・バージョンが一番ポピュラーで、多くのピアニストのレコーディングがあります。

 1955年、若きグールドは、この曲でレコードデビューしました。結果は、ポップスなどのメジャーを抑えて、全米ヒットチャート何と第1位。大ヒットは、世界各国にも広がったそうです。J.S.バッハの2段チェンバロ曲がこれほど多くの人々の支持を集めるとは、誰もが予想し得なかったことです。

 1981年に、「ゴールドベルク」は再びレコーディングされました。そして、グールドは、50年の早すぎる生涯を閉じました。天才にとってこの世は、煩わしいことばかりだったようです。彼は、発達障害から輩出される「こだわり」を極めた、スペシャルな能力を持つ天才だったと言われています。

 まるで、ピアノのペダルを無視するかのような、レガートを無視したぶつギレの音。グールドの一大特徴です。「私の演奏には、余計な飾りなど不要だ」と言わんばかりの演奏ですが、そのスピリッツはストレートに伝わって来ます。グールドには、バッハの音楽がピッタリ合うと、誰もが言います。

 発達障害にはいろいろありますが、グールドの場合は、人とのコミュニケーションが苦手で、物事への強いこだわりをもつ自閉症スペクトラムの傾向ありと、考えられます。

 彼は、リサイタルやコンサートを忌み嫌いレコーディングで自分の芸術性を表現しました。また、レコーディング中でも興が乗ると唸り声や鼻歌を平気で声に出していました。これも、強いこだわりなのでしょう。

 こうして、私のスマホの着信音は、ゴールドベルクの「アリア」になり、原曲のチェンバロ演奏はもちろんのこと、他のピアニストの演奏や弦楽合奏まで手を伸ばして、たくさんのCDを大人買いする、ゴールドベルク・マニアになっていきました。

 天気のいい朝に好んで聴くのは、1955年版の若く軽快な演奏です。モノラル録音を跳び越えて、ピアノはストレートに心を射止めます。雨の日は、1981年版。トータルで1955年版より13分も長い、速弾きはあれども、ゆっくりで音のひとつひとつが磨き込まれた繊細な演奏は、素晴らしいです。

 ゴールドベルクをどのバージョンで聴くかは、季節も関わってきます。寒くなってくると、弦楽三重奏や、弦楽合奏版。時々は、スパイスとして、チェンバロよる演奏を少しだけ聴きますが、途中でやめてしまいます。チェンバロを歌わない楽器と考えているのは間違いでしょうが、興味をそそりません。やはりピアノ演奏が一番好きです。

 1年中、飽きもせず、ゴールドベルクを聴いています。いつも最終的にはピアノ・バージョンになります。そして、いろいろなピアニストのレコーディングを聴くにつけ、何かが違うと考えます。非常にメロディアスな曲なので、ドラマティックな弾き方だと、興醒めしてしまいます。そのため、グールド的奏法が、ピッタリ合うのです。

 私もどうやら、グールドと同じ発達障害の傾向があるようです。グールドはピアノを弦楽器と捉え、地上わずか30cmの椅子に座って、独特のピチカート奏法で演奏する独特のスタイルでした。あの坂本龍一さんですらグールドの弾き方を真似したんだそうです。私は、例の唸り声や鼻歌しか真似できませんでした。

 ピアノが好きな人、趣味でピアノを弾く人には、グレン・グールドの2回のゴールドベルク変奏曲を聴いてみてください。ただし、現在ピアノを正式に習得中の人には、訳あってお勧めできません。グールドは天才ですがピアノを教える側からは、亜流だからです。

 グールドの音楽は、「依存症」を引き起こします。それは、ニコチンでもなくアルコールでも、麻薬、覚醒剤でもありません。酔うわけでもありません。言うなれば、健全たる中毒症とでも言えます。私の下手な例え話でその症状について、ご説明しましょう。

 新宿駅東口に「笑ってる場合ですよ」「笑っていいとも」のアルタがあります。その正面に向かって右側から入った路地に、お目当てとすべき「桂花ラーメン」があります。熊本ラーメンの大人気店です。私は、ここのラーメンの「依存症」になったのです。

 行列の順番が来て、人がすれ違うのも大変な店に入り「完全食」を注文します。ラーメンと小さな生野菜が出てきます。まずは、スープを味わいます。初体験の場合、その独特のクセのある匂いや味わいを「美味い」と感じる人は、ごく少ないと予想されます。

 取り放題の高菜を乗せて、無心ですすります。途中でくじけそうになっても、頑張って完食しました。後味も独特です。そして、翌日の昼も、なぜか桂花に来ている自分に驚きます。また「完全食」を完食することになります。これを「病みつき」状態と称します。しかし、その発作は、時間の経過で軽減しますので、どうぞご安心ください。

 誰でも何かに「ハマった」経験があると思います。私にとって、グールドのゴールドベルクと桂花ラーメンの完全食は、同じ意味合いを持っています。隣のカウンターに座って食べている人の恍惚の表情が、全てを物語っています。みんなが依存症状態なのです。

 まず、レコーディングをあざ笑うような演奏中の鼻唄や唸り声。ペダルを使ってないような演奏スタイル。明らかに変です。ピアノは、腰で弾けと言われています。しかし、グールドは極端な猫背で、顔と鍵盤との感覚が至近距離。カッコいいものではありません。

 しかし、何度も聴き込むにつれて「ハマって」いきます。磨き上げられた音に、ハマるのです。音に意味を感じるようになったら真の中毒患者のできあがりです。そして、何かの拍子にたまらなく聴きたくなるんです。こういう点は、桂花ラーメンへの依存症と同じ症状です。人生を豊かにする依存症です。

 興味のない方には、長話につき合っていただいて、御礼いたします。しかし、ゴールドベルク変奏曲は、素敵な音楽の世界を経験できる名曲です。シモーヌ・ディナースタインという美人のピアニストによるレコーディングなどが、無難なところでしょう。ぜひ一度お聞きになってください。

【参考文献】
ジェフリー・ペイザント著
『グレン・グールド
 〜なぜ、コンサートを開かないか〜
            音楽之友社


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?