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躾(Discipline)は?

 5S運動と呼ばれているそうですが、ご存じでしたか?思うところあって、「躾」の定義をググった時、5Sの検索結果の羅列を初めて見ました。どうやら、一般企業が職場環境の改善を目的として行われているそうです。

 最初の4つは、なんの疑問もなく理解できます。しかし、「躾」が同レベルで挙げられているのには、非常に違和感があります。なぜなら次元の違う分野だからです。また、躾によって望ましい生活習慣を身につけている人に、最初の4項目などは明記する必要がないからです。

 躾は、個人的には各家庭で成すべきことであり、集団の一員として学校等が成すべきことだと思います。しかし、ここでは「ルール遵守」のみ挙げられています。もしかしたら、私の考える躾を既にクリアした社会人向けなのでしょうか。しかし、「保育の5S」でも文言は全く同じでした。躾は、ルールを守らせることなのです。それ以外の記述はないのです。

 私にとって思い出深い躾は、箸の持ち方や鉛筆の持ち方でした。明治45年生まれの祖母に躾けられました。どちらも間違った持ち方をすると、上半身の姿勢が崩れると、うるさく言われたものです。ありがたいことに、どんなにフォーマルな場での食事でも、気後れすることはありませんでした。しかし、鉛筆に関してはダメでした。思春期に女の子たちに笑われた苦い経験もあります。未だに、そのままです。

 細かな躾の連続が、「育ち」に集約されると考えます。普段からきちんとした身なりをしている元同僚の例を紹介します。卒業式の日、男性職員は礼服を着ます。そして、黒いフォーマルな靴を履きます。更衣室で、何人かと一緒に着替えをしました。私は、平服を脱ぎ散らかし礼服を着ました。そして、普段から内履きにしている、安物紳士靴もどきを履いて終了です。

 一方、彼は同じく礼服着用時、脱いだ服はハンガー等にかけたりして、床に何も落とさず着替え終了。そして、REGAL の箱からを開け靴の中かシューズキーパーを取り出し、磨き込まれた革靴を丁寧に履き、靴ひもをきちんと結んで着替えが終了。靴の箱の正面には、本人のファーストネームが書かれていました。おそらく普段この靴は玄関にはなく、別の置き場に家族全員の分が積み上げているのだと思います。

 彼は、企業勤務経験のある、腰の低い人でした。家庭でも職場でも、きちんと躾けられていると感じることが多く、真似しようとしても、できませんでした。何気ないところが、かっこいいなんて羨ましい限りでした。更に、場をわきまえた言動に、ざっくばらんな話ができるひょうきんな人柄も際立っていました。育ちがいいのは、真似できません。また、大人になって取得できるようなものでもありません。

 躾を英語で、Disciplineと言います。大学受験の時、英単語 20,000語暗記を目指していた頃、『試験に出る語呂合わせ英単語』青春出版社で覚えた単語です。スペルは、私オリジナルのローマ字読み「ディスシプリネ」で、語呂合わせは「弟子プリンプリンするほど訓練する」で、辞書的意味は「訓練,養育, 生い立ち, 教育, 躾」とありました。躾について、私の考えと一致しているのが、お解りでしょう。

 ですから、5Sの中の1項目としてではなくて1〜4項目とは別次元の、人の心として高度で深い領域だと考えるのがノーマルだと思います。単にきまりに違反しないことが、躾がいいとは、誰も考えないからです。躾の良さは、その人の育ちや人格までに関わるからです。

 育ちは、人格的素養です。その観点から見ると今の世には、躾を考える場面が多くなってきていると感じるのは、私だけでしょうか。若くして親となり、躾と称して子どもに虐待行為をしていたという事件が、何度も報じられてきました。心底、腹が立ちました。子どもが、短い命を落としてしまうという、取り返しのつかない行為になってしまったケースもありました。

 そんなことも多くあって、「躾」という言葉は、避けられ忌み嫌われ、将来的に死語になるのかもしれません。最近、躾不十分で良くない育ちの人たちを、目にすることが多いです。あくまでも、自分を棚の上げて申し述べます。最近、SNSのTwitter(今はX)で目にした短文の短い記述が、言い得て妙と感じました。

やっぱ教師ってなぁ社会出てない社会人だから、融通きかねぇバカが多いんだな

Xにポストされた記事

 この「社会出てない社会人」という表現が、単なるヤンキー君などと切り捨てられぬ、教養を感じました。そうなんです。学校は「大人のごっこ遊び」の場なのです。また、躾不十分な人たちの組織と言ってもいいでしょう。

 日常の態度も言動も未分化ゆえ、保護者をはじめとして校外の目を恐れています。私もかつて、その真っ只中にいましたので、今となっては恥ずべき自分の姿を知っています。しかし今は、何でもハラスメントの時代。躾をしてくれる親切な人もいません。おべんちゃらを言っていれば、被害者にならずに済みます。この状態に、立場の違いなどなく、皆同じです。

 「融通きかねぇ」という記述も、社会経験が圧倒的に欠如したままで、ただ年齢を重ねるだけという意味です。例えば、互いに「先生」と呼び合うという異常さを知りません。電話口で上司の不在を適切に表現できません。こんなビジネスの基本中の基本の電話応対すら、50代でもできません。こういう環境に10年、20年と身を置くと、世間とのズレはピークに達するでしょう。ズレから乖離に陥るのです。

 これが、社会人としての躾が成されていない典型だと、世間は見ます。俗に言う「世間知らず」は、子どもだと可愛く思えて、いい育ちを目標として丁寧に教えていくべきことです。ただし、教える側がいい加減では、まともな躾などできるはずがありません。変な人を育ててしまうのです。教える側の責任は、重大です。

 さて、棚に上げた私はどうかというと、同じような年の取り方をしていきた恥を、63にもなって痛感しています。しかし、年下の皆さんよりは、少しはマシという程度かなと思っているところです。例えば、電話の応対で「校長先生は、本日出張されているため、学校にはいらっしゃいません」などと、絶対に話しません。何で変なのか、当然おわかりですよね?

 朝、出勤して職員室に無言で入ってくる先生を多く見ます。また、職員室に入って「おはようございます」と少し元気な声を発しても、ほとんど反応がありません。ここは 何の職場だったか一瞬わからなくなります。静寂ではありません。朝の世間話は、耳をつん裂く音量で、思わず指で耳栓をします。朝の保育園ホールでの自由遊びの状態と、何ら変わりありません。

 おかしな個人主義や偏ったモラルが、大手を振っている世界。この業界が、人手不足である要因が、明らかになってきました。この状態は躾を5Sの1項目としか認識できない感覚と同じだと思います。工場におけるマニュアル遵守が、躾でしょう。そして、トータルで「安全第一」のスローガンになります。同じスローガンが、同じように通用する教育現場には、寒気すら感じます。避けられるのも、当然です。

 躾不十分な子どもの心は荒れ、社会崩壊につながる問題が、次々と噴出するでしょう。しかし、まだ間に合うように思います。SDGsの中の「質の高い教育」の実現に向けて、あれこれ難しいことを考える前に、教育の基本理念である「不易と流行」の不易を「躾」に焦点化することです。振り出しに戻してみましょう。

 まずは、我が身を振り返りましょう。育ちの悪いところの改善は、修行にでも行かないとできません。しかし、初心にかえることは、誰にでもできると思います。「変」から脱出する第一歩にしていきませんか?


注)この文章は、高熱時に見た夢や YouTubeから捏造したフィクションであり、実在する施設等とは、何ら関係ありません。ただし、冒頭に出てくる紳士的な人物は、実在します。きちんと我が子を躾して、素晴らしい家庭を築いていると聞いています。何と、百人一首にも、その御名は登場します。誰でしょうね?

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