【血反吐を吐くのがダンサーの生きる道!?令和時代の芸事とは】Blog
私は、20代は10年ほど競技に出ていたのもあり、やはりダンサーとは努力してなんぼであり血反吐を吐いてでも血豆を作りながら体に叩きこみ、精神的にギリギリになところで
勝ち進んでいくものだ。
という常識の中で、
厳しいダンス界を見てきました。
しかしその中で、
私は疑問に感じて拭えない自分の本音が
ありました。
苦しい。痛い。辛い。
みんな精神ギリギリのところでやっている。
幸せそうな人がいない。
死にたい。と思っている人が結構な数いる。
ダンサーの仕事とは
こんなにも苦しいものなのか。
【幸せになると成功はないのか?】
毎日朝9時から2時まで
体力の限界までひたすらに踊り、
寝る時間を確保するためにスタジオの裏に引っ越して"苦しいが常識な"ダンスの世界に
身を捧げた若かりし時期でした。
しかし、自分の中で
ダンサーって人を解放する仕事なのでは?
こんな我慢大会のサラリーマンのような時代遅れの業界に疑問に思い、
1人で解放されて踊りたい!!
という欲望を満たすために
【1人で踊れるラテンダンス Latin Beauty®︎】を立ち上げました。
24歳でした。
私は、楽しく踊れる世界を創りたい。
私はあの苦痛の中に身を置きたくない。
アーティストでいたい。
と思ったのです。
あれよあれよという間に生徒さんは100人くらいまで増え、ダンスの仕事もずーーっと絶えない20代でした。
それは、当時楽しく踊れるラテンダンスが少なかったからというのもあると思います。
最高に楽しいバブリーなダンスライフを
満喫しました。
しかし20代後半に差し迫り、
私の中でまた新たな疑問が湧きます。
楽しくでいけるところまでは来た。
しかし、これ以上を目指すにはどうしたら?
世界レベルの技術を手にするために
"ロシア人がやっている当たり前"を知りたい。
日本で見るそれとは違う、
本場の本質的なダンスを身につけたい。
商業的なダンスではなく、
芸術としてのダンスを極めたい!!
そんな想いから、30歳になる歳に
ワーキングホリデービザとスチューデントビザを利用して、ドイツ人コーチのスカウトから、ドイツへ単身渡独しました。
願ってもやまない数年間のヨーロッパ留学の夢が叶いました。
"ロシア人の本場のそれ"は、
3歳からバレエ教育、5歳からアカデミーで築き上げた狭き門を通ったもの達の常識があり、
我慢のダンス界と、楽しい創造のダンス道と
極端な2本を体験してきた私にとっては
衝撃的な厳しさがありました。
20代の初めに体験した
不思議な我慢大会ではなく、
真実を知ってしまったが故に、
果てしもない道のりと、
自分が今まで人生をかけてやってきたダンスへの努力がどれだけ遠回りであったか、
日本には出回っていない真実が当たり前にあったか、
また、日本では見えなかった
今自分はどのレベルなのかが明確になりました。
この世で1番苦しいことは、
願っていた【真実を手にすること】でした。
一度知ったらもう元には戻れない。
目覚めと、
これを手にするのにあとどれくらいの年月がかかるのかと想像しただけで途方に暮れる果てしなさ。
せっかく全てを捨てて来たのだから!と
文字通り血反吐を吐くまで努力しました。
完璧な先生の元で、
完璧なダンスを求めるが故、
完璧になれない自分を責め続け
精神的にパニック状態になり、
全身アトピーになり、栄養失調、鬱、
家から一歩も出れなくなりました。
こんな状態で踊っていくことはできない。
これがダンサーの生きる道なのか!?
果たして?
続く…
#プロダンサー #競技ダンス#ラテンダンス#社交ダンス
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