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あなたが誰でも…(ブリタニア飛鳥第四回文学賞投稿作品)

私と、羊とヤギ、牛。それから鶏。
ささやかな藁ぶき屋根の家。そして小さな畑。
麻や綿を紡ぎ、春には家畜が増え、夏には収穫が。
秋には染色、そして冬には機を織る。

季節は廻り、年月は過ぎてゆく。

どこかから口笛が聞こえる。
くたびれた皮のコートとズボン
青いジャーキンに、同じ色の皮のブーツ。

「水を汲ませてくれないか」
そういって、彼は持っていた革袋に水を詰めた。
旅人の権利については、私も知っている。
平和に旅をする者は、共同の井戸から水を汲める。
それを邪魔してはいけないのだ。
王様の伝言を運ぶ馬が止めてある駅の水場からも。
このあたりにはそんなものはないが、旅人に水を施すのはブリタニアの民の習慣だ。

髪を後ろに結んでたらした横顔が、ちょっと疲れて見えた。
お腹、減ってるかしら…。

昨日焼いたパンを差し出すと、彼はちょっと驚いた顔をした。
「ありがとう」
その声には、たっぷりと感謝が乗っていて、私の胸は詰まった。
苦しい旅をしてきたのだろうか。

「これを。アバタールのお恵みがあるように」
彼はブレスレットをひとつ、私の手に握らせると、去っていった。

***

次に、その人がやってきたのは、麦の収穫が終わるころだった。
私の庭の納屋の前に、小麦の束を置いて。
「パンのお礼だ、いいパンだった」
私の頬は、熱くなった。
ほめられたことが、今まであっただろうか。
小さな子どもだったころはともかく。
「水を、汲ませてもらってもいいか」
我に返った私は、慌てて彼を案内した。

パンを一つ受け取る彼。
「名前は?」
きいた私に、彼は、名前はない、といった。
ないなんてことがあるだろうか。
彼が赤ん坊だった時、親がつけた名前があるだろうに…。

黙ってしまった私に、彼は言った。
「好きなように、呼んでくれ」
「では、ジョンと。私の一番尊敬している父の名よ」

今度は、彼が黙ってしまった。

***
次に私たちが会ったのは、道がぬかるむ春先のことだった。
彼は、赤い花をくれた。
「都では、娘たちがみんな、髪にこれを挿している」

そんな派手な花を髪に挿すのは気後れがするけれども...。
確かに美しい花だ。
部屋に明かりがともったような、その赤のきれいなこと。
彼が口笛で吹く歌は、ミノックの鉱山で覚えてきたのだとか。

彼は、季節によって、色々なところを渡り歩いているらしい。
「あまり、一つの場所にとどまるわけにもいかないんでな」
多くを語らない彼は、もしかしてお尋ね者なのだろうか。
彼のくたびれたコート、手入れはしてあるが古びたブーツ。
幸せなんだろうか、ちゃんと食事はしているのか…。
ふと、暖炉の火を眺める冬の夜に、彼のことが頭に浮かぶ。

私は、自分が幸せかどうかなんて考えたことがなかった。
毎朝起きて、仕事をして、眠る。それが生活というものだ。
仕事が出来なければ、食べられない。
私も、羊も、そして牛も、鳥も、ヤギも。
不自由はない。そしてそれが、私の知る幸せだ。

***

彼の吹く、調子の外れた曲が、森の方から聞こえてくる。
「水を、汲ませてくれないか」
彼は、都で、細工師が作るのだと言って
オルゴールというものをくれた。
曲がいくつか聞けるとても珍しいもので
私の胸は風の中の小鳥のように羽ばたいた。
彼の目はまるで面白いものを見た時のようにきらめいていて。

「今度は、いつ来るの、ジョン」
「そうだな、麦が実るころには、きっと」

彼のブーツはいつの間にか、新しくなっていて
古ぼけた青いジャーキンは鮮やかな緑になっていた。
コートだけは相変わらずだったけれども。

「いい旅を。アバタールのお恵みがありますように」
私はパンをひとつ、差し出して彼の目を見る。

あなたが、誰でも構わない。来てくれさえすれば。
麦の葉が、そして穂が。
あなたの訪れをささやく。

もうすぐ、もうすぐ。

森を抜け、丘を越えて。
あの音の外れた口笛が聞こえてくる
そんな朝を私は、待っている。



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