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上代特殊仮名遣のイ段乙音は[wi]、エ段乙音は[we]である -上代日本語の故地は豊前宇佐⁉-


はじめに

上代日本語(上代大和言葉)では、イ段、エ段、オ段において、一部の行で2種類の書き分けが成されていたことから、イ段、エ段、オ段には2種類の音あったことが知られており、これらを甲音、乙音として区別する。(Wikipedia「上代特殊仮名遣」,「日琉祖語」の記事も参照されたい。)

図1 上代日本語における音節表。濃色塗部分が書き分けのある音節。〇1は甲音、〇2は乙音を示す。(Wikipedia「上代特殊仮名遣」の表より)

このうち、オ段甲音は[o]、オ段乙音は[ə]のような音とされ、この2母音は日琉祖語まで遡ると考えられている。また、イ段甲音は[i]、エ段甲音は[e]とする見方が一般的で(本稿もこれに従う)、こちらも日琉祖語まで遡る音である。また、[a], [u]も日琉祖語までさかのぼる。日琉祖語>上代日本語において一部*e>i、*o>uという変化(MVR)を経た語はあるものの、これらの母音については基本的に日琉祖語と上代日本語に大きな体系の差はなく、日琉祖語は/*i, *u, *e, *ə, *o, *a/の6母音体系であったと考えられている。

一方でイ段乙音(i2)エ段乙音(e2)については、日琉祖語の母音融合によって成立したものであり、*ui,*oi,*əi > i2、*ai > e2と変化して生成されたとされる。このイ段乙音、エ段乙音については、様々な音価が想定されてきたが、結論は出ていない。本稿ではこれについて一仮説を与えるものである。

図2 日琉祖語から上代日本語、琉球祖語への母音変化。i1=イ甲、i2=イ乙、e1=エ甲、e2=エ乙、o1=オ甲、o2=オ乙。(Pellard (2008), Frellesvig (2010)などを元に作成されたWikipedia「日琉祖語」の図を加工。)
図3 日琉祖語と上代日本語の母音体系


イ段乙音は[wi]、エ段乙音は[we]である

結論を先に言えば、イ段乙音は[wi]、エ段乙音は[we]と考える。その理由は以下である。

イ段甲乙音とエ段甲乙音が書き分けられる行(子音音価)が同じであり、イ段乙音とエ段乙音は音声学的に同じ性質を持つと考えられること。

イ段甲乙音とエ段甲乙音が書き分けられる行は、両唇音[k],[g]と軟口蓋音[p],[b],[m]を子音とする行であり、有音両唇軟口蓋接近音の[w]と共通の性質を持つこと。

日琉祖語からの変化を鑑みても、*ui>wi, *oi>wi, *ai>weという変化は起きうる(現にそのような母音変化を起こす方言がある)こと(後述)。

③については最後に述べるが、まずは①、②から見ていこう。

カ、ガ、ハ、バ、マ行で区別が存在するのは、子音が両唇音または軟口蓋音だからである

上代特殊仮名遣において、イ段甲乙音、エ段甲乙音の書き分けがなされているのは、カ、ガ、ハ、バ、マ行である。子音で言えば、軟口蓋音[k],[g]と両唇音[p],[b],[m]を子音とする行である。すなわち、これらの子音と共通の性質を持つ有声両唇軟口蓋接近音[w](両唇音と軟口蓋音の特徴を併せ持つ)と非常に相性が良いのである。

つまり、両唇音と軟口蓋音の子音の後に[wi], [we]が付く場合(例:[kwi], [kwe])は発音しやすいが、それ以外の子音の後に[wi], [we]が付く場合(例:[nwi], [nwe])は発音が難しく、[nwi]→[ni], [nwe]→[ne]のようにすぐに変化してしまうことが想定される。すなわち、軟口蓋音[k],[g]と両唇音[p],[b],[m]を子音とするカ、ガ、ハ、バ、マ行では、乙音(Cwi、Cwe)が甲音(Ci, Ce)に統合せずに残ったということができる。

図4 Wikipedia「Template:子音」より。
図5 上代日本語の子音体系(Blaine (2003))。甲乙音の区別をする行は、[w]と共通の性質である、両唇音と軟口蓋音から始まる行(カ、ガ、ハ、バ、マ行)であることがわかる。

全行を見てみよう。まずはイ段。左が甲音、右が乙音である。(※濁音前の入り渡鼻音は省略。)

ア行 i / wi⇒ワ行甲音へ
カ行 ki / kwi…乙音残存([k]が軟口蓋音のため)
ガ行 gi / gwi…乙音残存([g]が軟口蓋音のため)
サ行 si /
swi⇒甲音へ統合
ザ行 zi /
zwi⇒甲音へ統合
タ行 ti /
twi⇒甲音へ統合
ダ行 di /
dwi⇒甲音へ統合
ナ行 ni /
nwi⇒甲音へ統合
ハ行 pi / pwi…乙音残存([p]が両唇音のため)
バ行 bi / bwi…乙音残存([b]が両唇音のため)
マ行 mi / mwi…乙音残存([m]が両唇音のため)
ヤ行 - /
-
ラ行 ri /
rwi⇒甲音へ統合
ワ行 wi / -

次にエ段。左が甲音、右が乙音。

ア行 e / we⇒ワ行甲音へ
カ行 ke / kwe…乙音残存([k]が軟口蓋音のため)
ガ行 ge / gwe…乙音残存([g]が軟口蓋音のため)
サ行 se /
swe⇒甲音へ統合
ザ行 ze /
zwe⇒甲音へ統合
タ行 te /
twe⇒甲音へ統合
ダ行 de /
dwe⇒甲音へ統合
ナ行 ne /
nwe⇒甲音へ統合
ハ行 pe / pwe…乙音残存([p]が両唇音のため)
バ行 be / bwe…乙音残存([b]が両唇音のため)
マ行 me / mwe…乙音残存([m]が両唇音のため)
ヤ行 je /
jwe⇒甲音へ統合
ラ行 re /
rwe⇒甲音へ統合
ワ行 we / -

このように、イ段乙音、エ段乙音の音価が、母音の前に有声両唇軟口蓋接近音[w]が挿入された[wi], [we]であるとすれば、カ、ガ、ハ、バ、マ行のみで区別が残った理由が音声力学的に明瞭に説明できる。

(※他説で、イ段乙音を[ɨ]、エ段乙音を[ɜ]や[æ]と推定する説などもあるが、これではカ、ガ、ハ、バ、マ行のみ区別が残った理由が音声力学的に説明できない。)

なお、カ、ガ、ハ、バ、マ行以外において、最初から乙音が存在しなかった(母音融合の段階から既に[w]が脱落していた)のか、あるいはある程度の間乙音が存続したのち[w]が脱落して甲音に統合したのかはわからない。

いずれにしても、日琉祖語>上代日本語のイ段乙音、エ段乙音の成り立ちについて、最終形としては、以下のような変化(母音融合)で表すことができよう。

*ui > i, wi/C[-bilabial][-velar][-Ø]__
*oi > i, wi/C[-bilabial][-velar][-Ø]__
*əi > i, wi/C[-bilabial][-velar][-Ø]__
*ai > e, we/C[-bilabial][-velar][-Ø]__

イ段乙音、エ段乙音は豊前(現・大分県)で誕生した?

さて、上代日本語のイ段乙音、エ段乙音は、日琉祖語から、*ui>wi(イ乙), *oi>wi(イ乙), *əi>wi(イ乙), *ai>we(エ乙)という変化をして誕生した音であるとした。このような変化が起こったからには、現代日本語の方言にその痕跡が残っているかどうかに興味が行くところである。実際、上記にとほぼ同様の変化を起こす方言がある。現代大分県方言である。大分県方言では、[oi]→[i:], [ui]→[i:], [ai]→[e:]という変化が起こるのだが、[i:], [e:]の前に[w]が挿入されることがある(例:挨拶[aisatsu]→[we:satsu]、長い[nagai]→[nagwe:])(糸井1983)。つまり、(母音の長短を考慮しなければ)[ui]→[wi]、[oi]→[wi]、[ai]→[we]という、日琉祖語から上代日本語への変化と同じ変化が起きるのである。このような変化が起こるのは全国で唯一大分県方言だけである。

古代史に目を転じると、豊前(現・大分県)の宇佐は、神武東征の故地である。『日本書記』には、神武天皇は日向(筑前糸島付近)から宇佐を経由して東征したことが記されている。宇佐市和気の柁鼻神社の社頭由緒では、「八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟」とされている。神武東征前の大和王権の勢力が、豊前宇佐にいたことは間違いないであろう。

これらを鑑みると、先・上代日本語は、豊前宇佐の地で、[oi]→[wi]、[ui]→[wi]、[ai]→[we]という連母音融合を起こした後、畿内へ東遷してきた可能性が考えられる。これについては別稿で詳述したい。


<引用文献>
・Blaine ERICKSON(2003). Old Japanese and Proto-Japonic Word Structure. p496
・糸井寛一(1983)「大分県の方言」飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一(編) 『講座方言学 9 九州地方の方言』237-266.東京:国書刊行会.
・Pellard, Thomas (2008). “Proto-Japonic *e and *o in Eastern Old Japanese”. Cahiers de Linguistique Asie Orientale 37 (2): 133–158. doi:10.1163/1960602808X00055.
・Frellesvig, Bjarke (2010). A History of the Japanese Language. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-65320-6.



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