ホワイトボードの魔術師がいた
少し前置きが長くなるが、私が会社勤務時代に出会った「ホワイトボードの魔術師」について書いてみたい。
昔、P&Gという消費財メーカに勤めていた私は、男であるにもかかわらず、ウィスパーという生理用品の研究開発部門に配属された。生理用品は女性のための製品ではあるが、女性だけで製品開発をしていると、イノベーティブな製品が出にくくなるおそれがあるため、少数ではあるが男性社員を混ぜていた。これにより、女性では思いつかないような製品の出現を期待しているとのことだった。残念ながらそのような製品を思いつくはずもなく、私は入社から4年後に生理用品と決別して、会社を去るのである。
それはさておき、生理用品について一般女性を凌駕する知識を着々と身につけていた入社2年目、私が担当していた製品がいよいよ世に出ることになった。私は生産ラインで製品が所定のスペックに達しているかを確認するために、数ヶ月間工場に駐在することになった。
私が所属する研究開発チームは、消費者テストなどで製品のスペックを決めていき、できるだけ消費者のニーズを満たす製品を設計する。しかし、設計された製品がそのまま販売されるわけではない。製品が日用品など大量生産品である場合には、高速の生産でもスペックを満たすように生産されなければならない。しかし、製品が複雑になると、高速での生産でスペックを満たすことが難しくなる。
そのため、製品の研究開発が進むと、生産技術チームが合流し、高速での生産が可能な生産ラインを作れるかどうかの検証が始まるのである。その結果、高速での生産が無理と判断された場合には、議論の末(戦いの末)、ラインスピードが変更されたり、設定したスペックが緩められていくことになる。例えば、モータショーで発表されたコンセプトカーは、非常に流麗な形状だったのに、実際に販売された車は残念なぐらいおとなしいデザインになっているということがあるが、それは大量生産できなことが理由ではないかと思う。
このように、製品開発チームと生産技術チームは、常に議論を重ね、最終的なスペックが決められていく。そして、製品化にゴーサインが出た後は、工場において、生産テストが始まるのである。このとき、実際の生産に携わる工場チームの方々も合流する。この生産テストは、生産技術チームがやってきたテストよりもさらに過酷なものとなる。製品出荷の大量生産のためには、何時間にも亘って生産ラインを動かし続けなければならないが、長時間生産ラインを動かしていると、それまで予想もしなかった問題が次々と生じるのである。そういう問題を一つ一つ潰しながら、テストを行うのであるが、製品の販売開始日は決まっているため、ゆっくりすることはできない。もし、製品の販売開始日に間に合わなかったら、誰かのクビが飛ぶだろう。
しかし、この段階になると、問題が発生しても、そうそう簡単には、ラインスピードを落としたり、スペックを変えることはできない。製品を世に出すに当たっては、ラインスピードや材料費等に基づくコスト計算が緻密に行われており、それに基づいて会社の利益が計算されているからである。
前置きが長くなったが、私の担当製品はこれまでにない複雑な形状をしてたので、多くの問題が起きた。そして、そのたびに意見を戦わせるのであるが、各チームには譲れないスペックがあり、それを議論する度に全員が疲弊していくのである。
そして、ある日大きな問題が発生し、いつものように議論を重ねたが、もうこれ以上議論しても進まないという膠着状態に陥った。全員がほぼ無言になり、重苦しい雰囲気になった。これ以上は、お偉い方々に判断してもらうしかないというところまで来ていたところ、ある人が、「Aさん、呼ぼうか」と言い出した。Aさんは、工場のご意見番のような方らしく、早速Aさんが呼ばれた。
Aさんは、このプロジェクトとは何ら関係のない人なのだが、ホワイトボードの前に立ち、各チームの主張をそれぞれ書き出していった。そして、Aさんの知識と経験を交えながら、絶妙なバランスで妥協点や方針を見いだしていく。その見いだし方は、客観的な根拠や経験上での成功例に基づいているため、誰もが納得できるものであった。そして、やるべきことが整理されると、全員がやる気を出して、現場に戻っていったのだった。
この経験は、入社2年目の私にとってはかなり衝撃的で、Aさんほどではないにしろ経験がある人たちが解決できなかったことを涼しい顔をしながら解決していった様を見て、凄い人がいるものだと感動した。後から聞くと、Aさんは、問題があると呼び出され、ホワイトボードを巧みに使いながら、議論をまとめていくとのことだった。なので、いつからかAさんのことをホワイトボードの魔術師と呼ぶようになったとか。この議論のとき、Aさんは、プロジェクトとは関係のない人だったが、詳細をほとんど聞くことなく、ホワイトボードに書きながら、このプロジェクトの概要と問題点を把握していき、さらには解決法もまとめ上げたのである。
この経験から下っ端の私が思ったことは、以下の通り。
1.議論が膠着したときには、一案として、中立的な立場の人に仲裁に入ってもらうのがよい。
2.但し、その人には圧倒的な知識と経験が必要。
3.考えを文字にすることは重要であり、それぞれの主張を視覚を交えて対比すると考えが整理されやすい。
4.はじめから一方に寄せた解決を図るのではなく、それぞれの主張を聞きながら、議論の流れの中で妥協点を見つけると双方が納得できる。
この製品は、上記のように苦労の末に世に出たのであったが、あまりの人気のなさに早々にディスコンになってしまったのであった。また、製品化が決まってから商標問題で商品名を変えざるを得なくなり、かなりダサい商品名となって世に出たという曰く付きの製品でもあった。なので、製品の残念な行く末は、販売前から決まっていたのかもしれない。
とはいうものの担当した製品を世に出すために、数ヶ月に亘って工場に籠もった経験は何事にも代えがたく、特に、Aさんのことは未だに覚えているのである。いつかはAさんのようなご意見番になりたいが、そのためには、圧倒的な知識と経験が必要なので、未だ修行中である。
(おしまい)
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