『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』シュロモー・サンド(高橋武智=監訳、佐々木康之・木村高子=訳、浩気社、二〇一〇年)
評者:山森みか
初出『福音と世界』2011年4月号、新教出版社
本書の原著はヘブライ語で、2008年に出版されるや19週に亘ってイスラエルのベストセラーリストに名を連ねた。著者サンドはテルアビブ大学教授、専門は現代ヨーロッパ史、特にフランス思想史である。だがここでは古代史から遺伝学にまで至るまで様々な分野の文献が引用され、ネイションとしてのユダヤ人がいかに創作されてきたかが述べられる。
まずサンドは自らの個人的な記憶を語る。イスラエルに移住したもののユダヤ人としての自意識をもたなかった二人の祖父。故郷を離れざるを得なかったパレスチナ人の二人の友人。それに内務省でユダヤ人と登録されていないことを気にしている二人の学生のエピソード。本書の執筆動機はここで明らかにされる。サンドは、ユダヤ人は民族――特殊な領土上に生活する人間集団で、そこで集団全体に共通する日常的な文化をもつ――をも、共通の起源に属する人間集団をも構成していないと言う。つまり現在のユダヤ人全体に共通する日常的文化も、遺伝子も存在しない。本書は、現在のイスラエル建国と維持に大いに利用されてきた、ユダヤ人というネイションの神話を脱構築し、それに代わる相対的な物語、新しい種類の記憶の接ぎ木を創出する試みである。
サンドは聖書の記述と歴史の間の懸隔から説き起こす。族長時代、出エジプト、ダビデ・ソロモン王国の栄光などの記述は歴史ではなく、また故郷からの強制的追放という概念も歴史そのままの反映ではないと言う。さらにユダヤ教は布教を積極的に行わないとされているが、初期及び中世においては積極的に伝道し、改宗を進めたことが指摘される。それに加えてかつてこの地に住んでいた人々と、現在のユダヤ人の間の直接的な血縁関係を証明しようとする遺伝学研究の不確かさ、ユダヤ人を生物学的人種と見なす考え方の危険性が述べられる。
サンドの抱く問題意識は、21世紀に生きる世俗派ユダヤ人にとってはある程度共有されている。義務教育で聖書は重視されており、またなるべく古い時代に聖書記者を想定しようという傾向はあるものの、今聖書の記述をそのまま信じている人は多くはない。また改宗者、諸外国からの養子縁組の実態を日々見ている人々にとって、ユダヤ人の血の純潔性はさほど前提されない。サンドの指摘は、行き過ぎ、専門家の議論でないという批判こそあれ、一定の説得力をもっている(とはいえサンドも言うように、自らをかつてこの地に住んでいたユダヤ人共同体の末裔だと信じている人の意識を覆すのは不可能だが)。
ではそのような指摘からサンドは、いかなる結論を導くのか。彼はイスラエル国が全世界のユダヤ人の国家と見なし続けられることに反対し、それは今そこに住むすべての市民の国家であると言う。そして全世界のユダヤ人がイスラエル国籍を取得できるという帰還法の廃止を提唱する。この帰還法ではユダヤ人の孫までがイスラエル国民になる権利を与えられているため、旧ソ連等から非ユダヤ人も多く移住し、大きな社会問題となっている。サンドが目指すのは今住んでいる全市民(非ユダヤ人、特にパレスチナ系イスラエル人――イスラエル国籍のアラブ人で国内に居住――)がユダヤ人と同等の権利を享受する民主主義国家である。一見過激に見えるサンドの叙述だが、彼が最終的に唱えるのは、ユダヤ人という「神話」の上に形成されたイスラエル国の解体でも、パレスチナ難民がイスラエル国の領土に全員帰還することでもなく、これ以上のユダヤ人の帰還を制限する民主国家イスラエルと将来樹立されるだろうパレスチナの二国家共存という、現実的な解決策なのである。この点についてはパレスチナ側からの批判が大いにあろうが、評者も現時点では二国家共存が現実的だろうと考えている。
ではユダヤ人というネイション概念への帰属意識の代わりに、仮構と知りつつ国民としての帰属意識を新たに求めようというサンドの提案をどう捉えるべきか。例えば全く立場は違うが、極右として憂慮されるリーベルマン外相は国民の条件としてイスラエル国家への忠誠を求めている。そして彼の支持者の中には多くの旧ソ連からの非ユダヤ人帰還者がいる。リーベルマンの政策に与すれば、彼らは改宗してユダヤ人にならずともイスラエル国民という自意識を獲得できるのである。リーベルマンの方針があるべき未来像とは評者には考え難い。ならばユダヤ人への帰属意識の代わりに、どのような国民としての帰属意識を涵養するのが幸福な未来像へとつながるのか。
本書は多くの問いを残したまま終わるが、それは問題の所在は指摘できても現実的解決の提案が困難な現状の反映である。
この書評への自己コメント(2014年9月14日記)
https://note.com/levyyamamori/n/na56efed5189f
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?