シュロモ―・サンド『ユダヤ人の起源』書評への自己コメント(2015年9月14日記)

以前書いたサンドの書評を読み直して、感じたことをだらだらと。

最も幸福な書評の書き方は、自分が読んで感銘を受けた本を紹介するものだろう。あんまり絶賛調だと提灯持ちみたいに受け取られかねないし、少しは批判点あるいは将来への期待を交えると、評者がよりインテリっぽく見えるから、なおよし、みたいな。いわゆる、ホメつつケナし、ケナしつつホメる、というテクニック。さらにこじらせると、インテリっぽく見せるのもイヤだから、あえて直球という手もあるけれど。(我ながら書いていてどうにもイヤラシイ考え方であるが、言い訳するのも子どもっぽい)。

一方で、時には編集部から本を指定して依頼される書評というのがあり、稀ではあるが、ちょっと頭を抱える場合もある。サンドの本はまさにこのパターンでした。

日本に限ったことではないが、キリスト教業界には、イスラエル絶賛の人々と、パレスチナ絶賛の人々がいて、私から見ると両者ともあんまり現実がよく分かっていないように見えるのだけれど、それはまあ現地の視点というアドバンテージ故なので、私が特に目が利く人間だというわけではない。で、サンドの本はイスラエルの研究者によるイスラエル批判だから、一般的な親パレスチナの人には好感され、他の評者が絶賛するだろうことは目に見えていた(実際そうなった)。欧米系(とその流れを汲む)リベラルが好感するには典型的な主張の本である。欧米系リベラルは、こういうイスラエル人が大好きである。しかし、ディープな親パレスチナの人たちは、サンドを「修正シオニスト」と呼び、イスラエル国家の現状承認なので(日本語でも)既に痛烈に批判していることも、私は知っていた(これは日本のキリスト教業界における一般的な親パレスチナの人たちの目には届いていなかった模様)。

それで、どう書けばいいのか考えあぐねてしまったわけです。サンドの本には、特に目新しいことは書かれていないけれど(イスラエルではさんざん議論されている論点が多い)、それが世界に発信されたということには意味があるのは確か。しかしいわゆる欧米系(とその流れを汲む)リベラルが信じているように、イスラエル国民の多くがここに書かれている事実を認識すれば、一朝にしてパレスチナ国家を承認して問題解決、というわけにはいかないことも、火を見るより明らか。それは1993年から2000年までの期間に限っては、ひょっとしたらそうだったかもしれないが、今となっては問題はそんなに簡単ではない。しかしその「簡単ではない」ところを逐一説明しはじめると、書評ではなくなってしまう。

というわけで、何だかすっきりしない書き方になってしまい、編集部も、恐らくは読者も?という感じだったのではないか、と思うのです。すっきりはっきりした主張じゃないと、なかなかどちらのサイドからも扱いづらい人だと思われる今日このごろ。それでも、何らかのかたちで途切れずに、私のような者にも仕事をさせてくれる日本のキリスト教業界は、なかなか捨てたものじゃないと思います(これはヨイショではありません)。

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