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ヒデキになりたかった少年時代

子どもの頃から西城秀樹が好きでした。今ももちろん大好きなアーティストです。
初めて見た記憶は「8時だヨ全員集合」。やめろっ!と言われても♫って、出演者たちが振り付けを真似してた場面が頭に浮かんできます。「激しい恋」という楽曲です。でもファンになる徹底的な瞬間は「ブーツを脱いで朝食を」で、イントロのメロディにのせてライターに火をつけて会場を照らすような振り付けを見たとき!ヒデキかっこええ〜と思いました。ヒデキの歌で僕のいちばん好きな楽曲です。まだ小学生だったので、自ずと真似をします。父親のライターをこっそり借りて鏡の前でヒデキになっていました。しかし、当時、僕のような子どもが多かったようで、ヒデキのフリを真似していた子どもが火事を起こすという事件が起こり、ライターを使っての振り付けは封印されてしまいます。にもかかわらず、ヒデキはその年の夏に「炎」という曲を発表します。これが、また情熱的で激しくて、西城秀樹節炸裂なんです。歌い上げるというか、絶叫に近い歌唱が圧巻でした。あの頃の男性ボーカルではダントツ。歌唱力ハンパないジュリーもいましたが、まったく方向の違う歌い方でしたね。ヒデキにしても、ジュリーにしても、その歌唱力のすごさを知るのは、私が大人になって、あらためて彼らの歌を聞いてからのお話ですけどね。
1979年「ヤングマン」が発売されます。初めてテレビで聞いたときと、レコード発売後では、ちょっと歌詞が違ったと記憶しています。もっと、荒っぽい男の応援歌みたいだったかと思います。「ヤングマン」はあっという間に大ヒットします。テレビやラジオはもちろん、有線放送でも流れまくっていました。当時は著作権とか関係なかったのか、学校の運動会や校内放送でもガンガンかかっていました。日本中が「Y・M・C・A」でした。しかし、この年、私は初めて知ります。レコード大賞は日本以外の曲がノミネートされないということを!
あんなにみんながヤングマンだったのに、その年の最高の流行歌を決める音楽賞でグランプリが獲れないという不思議。でも、当時のレコード会社も「ヤングマン」がヒット真っ最中なのに、二匹目のドジョウ狙いで日本版ヤングマンをヒデキに歌わせるというお粗末な戦略をしてましたけど、見事失敗でした。そのあとに発売される「勇気があれば」の方が名曲となりました。その後も「俺たちの時代」という「ヤングマン」モドキの曲を歌わせるんですが、この曲はモスクワオリンピックの日本の応援ソングとしてつくられたのですが、日本がボイコットしたため、なかったことにされます。もうこの頃のヒデキのスタッフのプロデュース力はダメダメでした。ヤングマンの呪縛から離れられない感があふれてました。
ようやく呪縛から逃れたのが81年の「ジプシー」あたりかと思います。ヒデキの真骨頂の歌謡ロックです。

続きは またこんど♫

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