もしもの話。

言葉が実体を持って触れるようになれたらな、と歌詞を書いた小休止中に回らない頭で考えた。
このご時勢で、何かに触ることは避けたい事の1つになってしまった。
僕は元より潔癖のきらいがあるので触ることに積極的ではなかったけれど、いざ触らないように、と気を遣うとなんだかんだものや人に触れて生きていたことを実感する。

例えば発表の前、同じバンドのメンバーに今日はよろしくね。と、言ってハイタッチや握手の接触を伴うコミュニケーションが生まれる場面でも、距離を保たないと。というブレーキが働く。少し寂しい。
そんな事が塵も積もって山の5合目辺りまでになっている。

でも、もしも読む、書く、聞く、以外に言葉に物理的に触ることが出来たら。自分が発した言葉が相手に触れてくれたら。
こんな世の中だから生まれる距離も、こんな世の中じゃなくても届けたい気持ちをきっと伝えてくれるのではないか、と思った。
それは遠くにいる憧れの人でもいいし、近くにいる人でもいい。
実体を持った人付き合いが希薄になる毎日で、言葉だけでも僕の大切な人たちの心に触れてほしい、触れていたいんだ。なんて、烏滸がましいことを。

これは昨今の状況など関係ない僕の話。
ずっと会いたかった人を電車で見かけて、気付いてもらおうと発した、あの、と虚しく落ちてしまった声が実体を持って相手に触れてくれたなら。
好きで、慕っている人に手紙を書いたとき、上手く言い表せないながらに言葉に込めた熱や質感を伝えてくれるのではないか。

本当は、本当に大切な人にくらいは手を取って目を見て伝えたいけれど何度試しても僕にはその意気地はないから。
そんな邪な目論見から言葉が触れてくれたなら、という空想をした。

言葉が実体として触れるようになるにはドラえもんに頼まないと難しいけれど、実体を持たずに触れるのは多分不可能ではないよ。といつも自分に言い聞かせている。
100%自分の意思と寸分違わず相手に触れてくれるか、相手の意思を100%寸分違わず触れられるかはわからないけど。

そんな少しの望みを宝物にして僕は今日も言葉を紡いでいる。そして時々こんな要領の得ない文章も書き散らかしてみる。
遠くにいる大切な人に届くように、僕の言葉が触れてくれるように、触れてもらえるように。