中原昌也の小説はなぜ面白くないのか?
皆さんは文章を読むのが好きだろうか、僕は大好きだ。文章を読むといいことがたくさんある。例えば、知識が増える。文章を読むことで、自分が今まで知らなかったことをたくさん知ることができる。例えば、新聞。毎日読むことで、世の中で起こった様々なニュースを知り、深く理解することができ、世間一般的に見て恥ずかしくない常識と良識を備えた素晴らしい人格者になることが容易にできるのだ。新聞を読んでさえいれば、社会人として失格という烙印を押される心配もなく、心身ともに健康な快活ライフを比較的安価に手に入れることができる。確かに、月々の新聞料金の支払いは必要である。しかし、人生において理想的な成功を収めるためなら決して高くはない値段設定であろう。人生、一にも二にも、まずは新聞である。新聞から全てが始まる。はじめに新聞ありき。新聞あれ。ビバ新聞。アモーレ。ピザーレ。カマタマーレ。
さて、前置きが長くなったが今回は中原昌也という小説家の書く小説がなぜ面白くないかということを書いていこうと思う。私は個人的に中原昌也の書く小説を読むことを愛好している。しかし、どうやらあまり世間一般的に見て人気のある作家ではないらしい。私の知人の多くも、「中原昌也の小説は面白くない」、「中原昌也の小説を読むことは時間の無駄である」と言っている。なぜだろうか。今回はそんな中原昌也の書く小説がなぜ面白くないか、様々な具体例をもとに解き明かしていきたい。
まずは、中原昌也の来歴を簡単に記す。中原 昌也(なかはら まさや、1970年6月4日 - )は、日本の音楽家、映画評論家、小説家、随筆家、画家、イラストレーター。文化学院高等課程中退。1988年頃から音楽活動を始め、1990年にノイズユニット暴力温泉芸者を立ち上げ、海外公演などを通じて日本国外でも活動している。音楽活動と平行して映画評論も手がけ、1998年には小説家としてデビュー、2001年に『あらゆる場所に花束が…』で三島由紀夫賞、2006年に『名もなき孤児たちの墓』で野間文芸新人賞を受賞。
ということで、中原昌也氏は、数多くの文学賞を受賞し、音楽活動、また海外での活動等精力的に行っており、溢れんばかりの才能をもち、それを発揮し、華々しい活躍を続けていることがわかる。これほどまでに素晴らしい経歴の持ち主の中原昌也氏の小説はなぜ面白くないと言われているのか。
さてまずは、前述の野間文芸新人賞受賞作『名もなき孤児たちの墓』から、最初の短編「私の『パソコンタイムズ』顛末記」を読んでいこう。皆さんは、この「私の『パソコンタイムズ』顛末記」というタイトルを見て、いったいどのような内容の小説をイメージするだろうか?まず、『パソコンタイムズ』という言葉について考えてみよう。『パソコンタイムズ』とは、いったい何だろうか?おそらく、「パソコン」が関係していることは間違いないだろう。「パソコン」とは「パーソナルコンピュータ」の略である。「パーソナルコンピュータ」とは個人向けの大きさ・性能・価格を持つコンピュータである。パソコン以前の機器では実現出来ない汎用性が特徴である。パソコンの登場で、今までは専用機器を何個も組み合わせて行っていた作業を、1台の機械で行えるようになった。また、パソコンは、専用機器のみでは不可能な、複雑な情報処理が可能であり、膨大な情報を扱う事で、それまでの生活では知り得ないような知見を生み、様々な意味で生活に激変をもたらした。そんな「パーソナルコンピュータ」という言葉が使われているのである。そして、「タイムズ」これはおそらく雑誌の名前だろう。つまり、この、「私の『パソコンタイムズ』顛末記」というタイトルを見れば、この小説は、「パーソナルコンピュータ」に関係する雑誌についての物語であるということがよくわかる。それでは、論より証拠、というわけで、まずは実際にその内容を見てみよう。
政府機関の調べでは、今や一家に一台あって当たり前と云っても過言ではないパソコン(パーソナルコンピューターの略)だが、どれだけの人々がその機能をきちんと把握し、家庭における諸問題の解決などに有効利用しているのだろうか?私の個人的な調査では、いくら高価で多機能なパソコンを所有していてもまったくその利便性についての興味を持っておらず、単なる現代人の必須アイテム的な必然性で購入したというケースが殆どであるとの見解を持っている。「ちょっとは使って見たけれど、頻繁に起きるトラブルに対処できず、迅速に対処できる技術者をバックアップ体制を整えるためにいちいち雇うことが、コスト削減の面からいって不可能で、結局パソコンは維持にお金がかかるからイヤ!」と眉間に皺を寄せる大手企業で管理職に就く女性と、初対面にもかかわらず二時間ばかり居酒屋で対話したことがある。一方的にパソコンに対する愚痴を話し、熱弁し疲れたのか自分が話すことがなくなったのか、急に言葉が少なくなり、冷たい態度でサッサと帰って行った。女性とは、皆こういうものだ。彼女は比較的裕福な家庭に育ち、恵まれた少女時代をおくったのだがパソコンの利便性という壁が常に立ちはだかり、必ずしも順調な人生とはいえないものだったようだ。
中原昌也「私の『パソコンタイムズ』顛末記」『名もなき孤児たちの墓』(新潮社、2006)p.8-p.9
思い切って長めに引用してみました。どうやらまずはパソコンについての説明などをしているようだ。確かにこの部分はあまり面白くないのではないだろうか?小説の始まりとしては、いきなりパソコンの話をされても、面白くないですよね。「僕は小説を読みたいんだ!」と思わず部屋で一人、大きな声を出してしまう人もたくさんいるのではないでしょうか?おまけにこの文章からは、作者が女性を差別していることが明確に分かります。女性をバカにしていますね!こんなのはダメですよ。新しい時代を生きる新しい人々が持つ一般的な常識から考えて、女性に対する思いやりの欠けたこんな文章を書いているようではダメです!思わず怒りで手足が震えるほどですね。危うく暴力を振るうところでした。我慢の限界が近づくと僕は暴力を振るいそうになってくるのです。どんなに優しい柔和な雰囲気の表情をしていても、溢れんばかりの正義感は時に凶器になる……なんちゃって(笑)。そんなことはないんです。僕はすごく人懐っこい人間です。コアラを濃縮して瞬間凍結したかのようなやさしい人柄。とてもじゃないが言葉では説明できません。
さて、お手並み拝見ということで、ちょっと飛ばして続きも読んでみましょう。月刊『パソコンタイムズ』編集長の平賀吉成氏が登場し、インタビューを受けています。
「うちの『月刊パソコンタイムズ』は、何も寝ても覚めても四六時中パソコンパソコン言ってるパソコン狂のための雑誌になろうとは思っていません。むしろパソコンという言葉自体使いたくないのです。数年前から実験的に『パソコン』という言葉が一度も出てこないページを増やしています」
編集長自ら考案したソフトにより、データ化された原稿の中から「パソコン」という文字だけを摘出し、消去するシステムを版下の段階で導入する。やがて「パソコン」という言葉すら聞かなくなる世の中になると、平賀氏は予言する。 中原昌也「私の『パソコンタイムズ』顛末記」『名もなき孤児たちの墓』(新潮社、2006)p.11
さて、やり手の雑誌編集長へのインタビューです。パソコンについての雑誌にも関わらず、「パソコン」という言葉を使わないページを増やすそうです。実験精神に溢れる人柄が想像できますね。「パソコン」という文字だけを摘出し、消去するシステムは、「パソコン」にどうしても苦手意識があるという方にとっては、夢のようなシステムではないでしょうか。目に入るだけでも拒否反応が出てしまう、蕁麻疹のような得体の知れない恐ろしい発疹が体全体を覆ってしまう、それもまだ生後間もない無垢な赤ん坊のような純粋な心を持ったたくさんの女性たちの美しい体を…そんな恐ろしい悲劇を未然に防ぐためにも、絶対に必要なシステムだと確信しています。
しかしそのように素晴らしいシステムを開発した平賀氏のインタビューは、予想もしない方向へと向かっていきます。
「若い頃かなりのワルで、深酒からシンナーまでなんだってやりました。何度か女性の残殺事件に関与したこともありました……情けない話で恐縮ですが……その都度、実際の主犯格は僕ではないのですね。しかし、まだ道徳観のはっきりしてなかった時分のことですから。大目に見て欲しいですよ。ここの部分は掲載時に、割と同情的にアレンジして書き起こして欲しいものです」 中原昌也「私の『パソコンタイムズ』顛末記」『名もなき孤児たちの墓』(新潮社、2006)p.13
恐ろしい!なんと平賀氏は殺人鬼であった!なんの罪もない赤子同然の無垢なる美少女たちをなんのためらいもなく殺害してきたのであろう。とんでもないことである。魑魅魍魎でさえも憤然とする、鬼畜同様の悪行である。とてもではないが擁護することはできません。今すぐに警察に逮捕してもらいましょう。皆さん、携帯電話の準備はよろしいでしょうか。今すぐ通報しましょう。て、なぁーに、慌てないでください。これは小説ですよ。実際は作り物です。何もかも嘘なんです。そんなに怖がらなくても大丈夫です!しかしどうしようもない男だなあ(笑)。平賀サンはきっと、心に強いトラウマを抱えた人だと思います。犯した罪は許されませんが、同情に値する部分も多分にあるでしょう。罪を憎んで人を憎まず、とはこういうことです。どうしてもっていうなら、いたずら電話でもしますか(笑)
「あと二十年程したらハードコアポルノが真の意味で解禁され、我が国でも家庭の居間に違和感なく、そういう類いの雑誌やビデオが所狭しと置かれ、家族の誰もが陽気に楽しむ時代がやってくるでしょう。国家権力の理不尽な暴力に怯えることなくね。お上なんぞに気兼ねなく自由に、のびのびと。そして人目を憚らず胸を張って堂々と電車の中でそういう雑誌を広げて物欲しそうな恍惚の表情で眺めることだって、決して恥ずかしいことではなくなる。しかし、まだ今はそんな理想的な社会ではないんです。成熟しきっていない世の中というか、とにかくハードコアポルノを責任を持って正しく管理する大人が、まだこの国にはいないのです。もし子供たちが悪い大人に拉致されて人気のない場所に連れて行かれて、全裸の男女が性器を大胆に接合させている写真を何の予告もなく見せられたら、そりゃあどんなに生意気な子供だって面喰らうことでしょう。僕だって二人の子の親ですから、そんなこと大反対です。たまったもんじゃないですよ。もし、うちの子にそのようなことをされたら、まっ先に子供の目をくり抜くでしょう。『お前、見てはいけないものを見たな』と(笑)…… 中原昌也「私の『パソコンタイムズ』顛末記」『名もなき孤児たちの墓』(新潮社、2006)p.15
ハードコアポルノとはポルノグラフィの一形態で、性行為をあからさまに取り扱ったもの。ハードコア・ポルノグラフィ(Hardcore pornography)とも呼ばれ、ソフトコアと対比される。媒体は写真やビデオ・映画(若しくは動画)等だが、これ以外のものでも定義の範疇に入る。実際の性行為が伴う物を指し、日本では大多数のアダルトビデオなどが該当する。ポルノ映画の定義は、欧米では日本におけるアダルトビデオと同様だが、日本では歴史的に日活ロマンポルノやピンク映画などの、性行為を抽象的に演出する「ソフトコア・ポルノ」を指していた。
そしてハードコアポルノを楽しむ人々の数は近年加速度的に上昇している。それは本国の少子化問題とあたかも反比例しているかのように……。若者は実際に行われる性交渉よりも、ハードコアポルノを鑑賞しながら行う自慰行為により強い快感を得るということが統計学的に明らかにされている。これにより若者の間では、性行為による快楽の享受は既に時代遅れ、最先端かつ最安値の快楽獲得法として、ハードコアポルノ鑑賞は今となっては常識らしい。一見お洒落な内装のカフェレストランにおいて、実は個室席では流行りのアダルトビデオを時間無制限見放題(ただし1200円以上のスペシャルランチ注文時に限る)というサービスが行われているなんてことはザラなのである。さらに近年では、ハードコンタクトレンズを極薄のスクリーンに改造し、大学入試中、就職活動中、性交渉中、結婚挨拶中、離婚裁判中、死刑執行中等にハードコアポルノを楽しんでいる連中もいるというから油断も隙も無い。既に我々の常識では測れないほどに、技術は進化しているのだ。そして技術の進化は我々が既に「未来」を手中に収めたことも意味している。未来は僕らの手の中、というのはもはや古びた比喩である。僕らの目の中に既に未来はある。望みさえすれば何でも手に入る、いや、目に入る未来が既にやってきているのだ。
「いや先程から、妻も子供もいる身であるかのように話してますが、それは全部作り話で、実は独身です。まったく女性には縁がなくてね。現実の女性よりもこうしてハードコアポルノの雑誌やビデオの中の女性たちの方がどれだけ人間的で優しいことか。もう女性なんてこういう世界のイメージだけで十分です。全部虐殺しちまってもかまわないんじゃないでしょうか?いやいや、これはあからさまに反感を買うような間違った意見なんでしょうけどね。そもそも人間なんかよりも、こうしてハードコアポルノの雑誌やビデオなんかに囲まれて暮らしているほうが心も休まりますよ。一度は、ダブって購入してしまったポルノ雑誌を断裁してゴムの袋に詰めて、人間の頭身にして人形にして、実験的にしばらくそれらと共同生活してみたこともありますよ。…… 中原昌也「私の『パソコンタイムズ』顛末記」『名もなき孤児たちの墓』(新潮社、2006)p.17
僕たちの掴んだ未来の輝かしいまでの美しさに、眼球が耐えきれず失明するという痛ましい事件が頻発しているということもまた悲しむべき事実である。しかし、我々は絶えず前に進まなければならない。なぜなら進歩こそが未来、未来こそが希望、希望こそが明日だからだ。輝ける明日を僕らの手に掴むため、美しい人類は溢れんばかりの笑顔で焼死する。その先にあるのは全てを克服した新人類。全ての差別は解決し、性別は統合される。素晴らしい明日のための犠牲を厭わないのも新人類の条件である。美しい明日を美味しい寿司とともに笑顔で迎えよう。家族水入らずのきめ細やかな団欒を、新しい寿司とともに。気づいた時には全人類の全ての臓器があっという間に握り寿司になっている。それはハードコアポルノを愛好した者たちの成れの果てである。寿司になっても呼吸、寿司になってもオーガズム、寿司になっても一人。どこまでも愚かしい人類に救いの手など用意されてはいないことに、寿司になってから気づく。キメラ風握り寿司、上海バカンス風軍艦巻き、警察官見習い風手巻き。要するに抽象が具体に変わる瞬間のポルノである。結末はこの通り、栄光の架橋だ。再開発中の巨大なアナルだ。全体が気をつけした瞬間に鐘がなる。1、2、3。3、2、1。あと少し。そこから生まれる音が、全ての答えだ。寿司にも気をつけができるのか?しかし不可能を可能にしてきた人類の姿に拍手。鐘の音とともにすべての寿司が一斉に射精する。まるでお誕生日会のクラッカーのように……精液を被った寿司たちは一見「白子ソースのサービスかな?」と誰もが思うほどの自然な仕上がり。経験豊富なグルメ評論家でさえ見間違えるほど。これが新時代のハードコアポルノだ。
みんなも中原昌也を読んでください。おしまい。
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