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純粋の小説~西村賢太の「私小説」~

 西村賢太という私小説作家がいた。彼は2022年の2月に死んだ。おそらく長年の不摂生が原因だ。そして彼が書いていた小説がもう書かれることはない。    
 彼の死をニュースで知った時、僕は自分でも意外なくらいに動揺した。彼の小説のいくつかを僕は読んでいた。しかし特別贔屓にしているわけではなかった。しかしそれでも彼の死は僕を困惑させた。というか死んではいけないと思った。若すぎる?もちろん日本の平均寿命からして、54歳で死ぬのは早すぎる。
 ただそういう問題でなく、この作家がいま死ぬのはいけないと思った。なぜか。それが自分でもよく分からなかった。なんとなく気分が悪かった。それからまた彼の小説をいくつか読んだ。読んだからといって何かが変わるわけではない。 
 彼の小説が僕には分からない。分からないというのはおもしろさが理解できないというのではない。けっこうおもしろいと思う。彼の小説はいわゆる私小説である。性犯罪者の息子で、中卒の肉体労働者である自分の人生について書いてある。
 彼の小説は読みやすい。とても読みやすい。彼のどの作品を読んでも、最後まで読むのに苦労したという記憶はない。
 その読みやすさがよく分からなかった。小説が読みやすいのはとてもいいことだが、はっきりいって彼の小説は万人受けするような内容ではない。主人公は気の弱い衝動的な男だ。女を殴る。実の母親にたかる。酒を飲んで喧嘩する。同じような馬鹿なことを同じように繰り返す。読むに耐えないと思う人もいるかもしれないがなぜかそうではない。とっても読みやすい。読んでいて不快にならない。悲しくならない。楽しくならない。辛くならない。うれしくならない。泣きたくならない。ただ読んでしまう。そして読んだあとになにも残らない。もちろん僕個人の感想だ。しかしとにかく僕にはずっとこれが疑問だった。
 なぜ彼の小説は、ろくでもない男のろくでもない人生について書いてあるのに、読みやすく、後味も悪くないのか。もっといやーな感覚が残って、「こんな小説二度と読みたくねえやい!」と言いながらも中毒性があるみたいな作家だと、僕は思っていた。しかし少なくとも僕にとっては違った。なぜこんなにも何もないのか。もっとあるべきだろうと思った。
 
 小説とはなんなのか。今までいろんな人がいろんなことを考えてきて、いろんなやり方で答えてきた。彼の小説を読むたびに、この疑問について考えてしまう。
 今、てきとうに答えてみよう。僕にとって小説とは、生きることの「喜び」や「悲しみ」を描くものだ。それをどう描くか、どの程度描くか、というのは個人差がある。ともかくその二つの要素をどう配分するかとか、何で割るかとか、どの程度熟成させるかとか、コンビニで買うかとか、道端で拾うかとか、空から落ちてくるかとか、地下から掘り出すかとか、ちんこから出てくるかとか、そういうところで個性が生まれる。 
 しかし彼の小説からは生きることの喜びや悲しみやなんやかやとか、そんな一切がなんにも感じられないのだ。
 かといっていわゆる「虚無」とは違う。ぜんぜん虚無でない。叫んだりしてるし。
 はっきりいって「自意識」というのがまるで感じられないのだ。これは小説を、いや小説に限らず何かを表現するときには、めっちゃ重要な要素である。自意識。表現とは自意識との取っ組み合いだと言ってもいい。どんな表現者も、自意識とは無縁ではいられなかった。
 例えば三島由紀夫は、自意識を過剰に肥大させて、それをベースに小説を書き続けた。「俺が生きるってなんなんや、あーこうかもな、そーだぜ!あーだぜ!見て見て!俺!俺!俺!」という強烈な自意識あふれる文章、小説が彼の特徴である。
 その対極にあるのは村上春樹。彼は自意識なんてないですよう。そんなことよりビール飲んでセックスして走りましょう。まっとうな生活によるまっとうな人生、でも心の中の深い部分には底知れぬ闇があって、怖いよね。時折覗くよね、セクシーに。みたいな小説を書いた。悪意がある書き方だな。許してくれ。僕は彼の小説を評価しているけど、うまく向き合えない。
 そして中原昌也がいる。彼も三島由紀夫とは違った意味で自意識の作家である。小説を書くという行為自体が、彼の自意識には耐えられない。とっても恥ずかしい。だから作者がしょっちゅう顔を出す。もう書きたくない。こんなくだらない文章を、みたいに。それでも彼の小説は苛烈におもしろい。  
 このように自意識は作家にとってなくてはならないものだ。どのようにそれと向き合うかはそれぞれに違うが、とにかく自意識が全ての根幹にある、と僕は思う。しかし西村賢太の小説からは自意識が全く感じられないのだ。

 おいおい。マジか。

 たぶんマジだ。彼は私小説を書いている。私小説なんて、自意識のオン・パレードでないのか?ほら太宰とか。あの太宰治とか、すげーじゃん。彼こそキング・オブ・自意識。
 それなのに、西村賢太の小説からは自意識が感じられない。そりゃあくまで僕の感想なので、当てにならないが、彼の小説が内容に反して異様に読みやすいのも、それに関係している気がする。

 彼の小説はどんな小説か。

 内容はさっき言った通りだ。しかし大事なことをまだ言っていない。文章が変だ。どう変かというと、普通最近の人はこんな言葉使わないよねという言葉がたくさん使われている。
 例えば、「慊い(あきたらない)」、「結句」、「尿(いばり)」など。なんだこれ!
 そんな詳細に読んでないので僕もよくわからんが、これらのやたら古風な言い回しは、藤澤清造や田中英光などの破滅的私小説作家の影響らしい。いや影響どころかほとんど模倣の域に達している、と思う。
 この異様に人工的な文章で、駄目な男の駄目な生活が描かれる。それでもって全く自意識を感じない。
 べつに、自意識のない文章なんて、簡単に書けるんじゃないですかーぁ?という人もいるかもしれないがこれは超絶に難しい。特に自分のことを書いているときはなおさらだ。こんな破滅的な生活している、俺、ですけど、実はね、世界は狂っていて、俺も苦しいんですわ。許しておくれやす、でもセクシーでしょ。みたいなのが出てしまう。三島由紀夫みたいに100パー全開だろうが、村上春樹みたいにぜんぜんないみたいな顔してほんの一滴忍ばせようが、とにかく誰にでもある。しかし西村賢太にはない。全く微塵もない。ほんとか?しらんよ。俺はそう思うんじゃ。

 なんでそんなことができるんかずっとわからなかった。そしてそのまま彼は死んでしまった。

 彼の死から1年と少し経った。西村賢太のいない世界は今日も元気に腐り果てていた。
 NHKが彼の特集番組を作っているのを知った。マジか、見なければ、と思った。そして見た。ビビった。感動した。やっと、西村賢太が分かった気がした。というか、なぜ分からなかったかが分かった気がした。僕がこの文章を書いている理由も、そこにある。

 その番組は、西村賢太の関係者にいろいろインタビューをして、彼について知るみたいな内容だった。関係者と言っても様々で、完全ド素人のファンから、編集者、作家の田中慎弥、ミュージシャンの尾崎世界観など。その雑多な感じがよかった。
 途中まではなんとかかんとか、まあ予想通りというか、西村賢太ってこうだよね、みたいな感じですすんでいった。
 しかし終盤、彼の編集者たちが、通夜の席(だったか?)で彼の思い出を話している場面で、ちょっとした展開があった。
 編集者の一人が、「西村さんは藤澤清造に出会ってから小説家を目指したと思っていたけど、どうやらそうでないらしい。もっとずっと前から、小説家を目指していたんだって。そうすると、僕らの知っている西村さんは、なんだったのか…」というようなことを言った。
 その発言をきっかけに、番組のスタッフは西村賢太の中学の同級生にインタビューをすることになる。
 画面に二人のおじさんが登場した。西村賢太の同級生なので、当たり前におじさんだ。卒業アルバムを見ながら、懐かしそうに当時の思い出をしゃべる。
 その卒業アルバムの写真がすごい。中学3年時の、クラス写真だ。他の生徒にはモザイクがかけられている中、西村賢太の部分の写真があった。
 大きな男だ。そして苦り切った顔をして、下を向いている。下を向いている?おいおい集合写真だぞ。しかも卒業アルバムの。プロが撮っている写真で、あんな顔で、下を向いているやつなんて、初めて見た。世界を投げているような立ち姿だった。
 二人のおじさんのうち一人が語る。「彼とは出席番号順の席で、僕が前で、彼が後ろだったんです。(言い忘れていたが番組に出ている人物の発言は、僕のうろ覚えの記憶を元に再現している。だから細かい部分は当たり前にぜんぜん違うが、だいたいの内容はあっていると思う)だから時々話をしました。彼はずっと、一人で本を読んでいて、『俺は小説家になるんだ、俺は小説家になるんだ』というようなことをぶつぶつずっと言っていた」
 「すごく印象的だったことがあって、ある日彼の弁当を見たんです。それが、真っ白いご飯に、真ん中に梅干し一つだけ。いわゆる日の丸弁当です。おかずは何もない。それで僕は『それでお腹いっぱいになるの?』と聞いたんです。それで彼は…答えたんだったかな?どうだったか…ともかくそのことがすごく印象に残っています」
 中学三年の時、西村賢太は、幼少期に逮捕された彼の父親の、本当の罪状を知った。これまではずっと強盗事件で逮捕されたと聞かされていたが、実は強姦だった。自分が性犯罪者の息子だと知った彼は、そのショックから不登校になったらしい。ちょうどその時期のエピソードだ。
 このエピソードを聞いて、僕は今まで西村賢太という人間、彼の小説に対して抱いていた違和感の謎が解けた気がした。
 まず、このエピソードから分かるのは、彼は中学時代には既に、小説家になるという決意を固めていたということだ。後に肉体労働のその日暮らしを送る中出会った、田中英光や藤澤清造などの破滅的私小説作家の影響ではない。そのずっと前から、自分の生涯を何に捧げるかを決めていた。
 そう言えば、彼の読書体験にはけっこう謎が多い。前述の私小説作家はもちろん、横溝正史や大藪春彦などの探偵小説も読んでいたらしいことが、彼の小説を読むと分かる。しかしそれ以外に何を読んでいたのかが、よく分からない。特にこの中学時代に、ずっと読んでいた本とは、どんなものだったのか、分からない。
 しかしともかく、彼はこの時点で小説家になると決めていた。一人でずっと本を読んで、日の丸弁当を食べていた。完全な変人だ。この時点で、西村賢太は誕生しつつあった。
 
 ここから先は完全な仮説だ。もはや妄想だ。そもそもそんなに数多く彼の小説を読んでいるわけでもないのに、こんなことを言っていいのか。明らかに間違っていることもあるかもしれないが、勢いのままに書く。僕がこのエピソードを聞いて思ったのが、彼はこの時点で、自分の生涯を、小説に書こうと、つまりただの小説家ではなく、私小説作家になろうと決めていたのではないか。そして、そのために、自分の人生を破滅させる、小説になれるように、人生を演出してやろうと決めたのではないか。
 もちろん彼が私小説作家に出会ったのは、このずっと後だとされている。通説に反して、実はこの頃に既に読んでいたのか、それとも自分自身で、性犯罪者の息子としての自分の人生を描くことが小説になると悟ったのか。
 いずれにせよ、彼はこの時点で決めた。自分の人生を、小説にする。それは逆に言えば、小説のように、生きるということだ。彼は自分の人生を、その破滅を、この時点で計画し、実行した。冗談みたいな日の丸弁当も、その小道具だ。
 しかし、なぜ?わからない。彼は犯罪者の息子として過ごすなかで、人生をもう投げていたのかもしれない。俺の人生は終わった。終わったところから何かを始めるにはどうしたらいいか…という考えの結果だったかもしれない。
 ともかく、彼の人生はそれ自体が虚構だった。だから彼の小説は、彼の切実な人生を写し取ったものとしての私小説ではない。人生そのものがもとから小説だったのだ。
 だから、彼の小説は純粋なのだ。凡百の小説家が苦しむ自意識はそこにはない。なぜなら「小説」を書いてはいないからだ。素材そのもの100パーセント。そこにある人生を切り取ったら小説だった。文章は素材を切り取るための道具に過ぎないから、手近にあったものを拾ってきて、使っただけ。だから文章に自意識の入り込む余地はない。天然の素材と、使い込まれた道具を使う純然たる労働だ。刺身盛り合わせを作るのと同じ。
 これは簡単なようでぜんぜん簡単ではない。なぜなら人生そのものを棒にふらなければならないからだ。自分の人生そのものを虚構に仕立て上げ、小説にしてしまう。そんなことは誰にもできない。中学の痛いノリで一瞬そんな時期があっても、単に「黒歴史」になるだけだ。しかし彼は違った。徹底した。徹底というのが、彼の狂気だ。あり得ない。そんなことができる人間は、後にも先にもいない。
 彼が私小説以外の小説を生涯書かなかったのも当然である。なぜなら彼は小説を書いていなかったからだ。彼は小説を生きたのであり、それ以外の仕事をしていない。当たり前だ。
 彼の小説に何が書いてあっても、なぜか爽やかで、氷水を飲んだように思えるのは、それが純粋な小説だからだ。不純物が入っていない。彼は純粋な虚構だった。彼そのものが。
 おそらく僕は彼の、不純な部分を見たかったのだ。年を取れば、何かが、出てくるかも知れないと思った。しかしその前に死んでしまった。負けた、と思った。みんな彼に勝てなかった。最後まで走りきらせてしまった。これから一生、彼に勝つことはできない。不滅だ。絶対不滅の破滅の人生を送った彼に勝てる「小説家」は、今後絶対に現れることはない。

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