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母の瞳の中にある生きる力

施設の仕事の間をぬって、横浜の実母に会いに行っています。
ベッドで寝たきり、発話も少なくなってその場の会話だけ。
以前は長すぎると思った昔話もしません。

前は行くと必ず写真を撮っていましたが、カメラへ向かってほほ笑むこともなく、そんな姿を写真にとることができません。
でも、私が行くとかすかに笑って、「ウレシイ」、「ヨカッタ」と短く言うのです。
ヘルパーさんも「娘さんがいると表情が違います、本当にお世話して良かったと思います」と言ってくださる。

母は今寝たきりで生きていることをどう思っているのでしょう。
自分が寝たきりになって落ち込むという様子はありません。
何もしたくない、皆にお世話してほしい、と言っていたから望む生活なのかしら。

そんな反応が乏しくなった母に会いたくて、大事な仕事があってもスタッフに申し訳ない、と言い訳しながら行くのはなんででしょうか。
まったく反応がなくなったらもう行かなくて良いのでしょうか。
以前病院で意識がなくなったと言われて呼ばれた時、父は意識がないなら会わないと行きませんでした。
父は今は隣に座り、手をマッサージしたり、布団を直したりやさしく面倒を見ています(おむつを変えたりはしませんが、かいがいしい(笑)
そして私に「ママは二日くらい前からすごく良くなってきた、ずっと良くなった」「退院した後はぼんやりしていたけれどこれからはどんどんはっきりしてきて、口うるさくなるぞ」
と明るく話します(なぜか私が行く数日前から良くなるらしい)

母に会って嬉しいのはもちろん、話すことが少なくなった母の瞳の強さを見たくて会いに行きます。
話さなくても私と目を合わせ、見つめあう時間はとても大切な時間です。
意思のある瞳は父をはじめ周りの人に明るさをもたらします。

お母さんの瞳に会いに行きます。


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