狭い門

狭い門を通って入ることについて、どういう意味かを最近考えた。神からの啓示により答えは与えられている。それは昔からいろいろな人が挑戦して失敗してきているもの。「肉の働きを殺すならあなた方は生きる」というパウロの言葉である。この意味は何か?どうやるのか?「キリストに属する者は自分を十字架につけた」これが答えである。この者はキリストの霊をもった者で罪と死の法則からキリストにより解放された者である。

イエス自身が道であり真理であり命である。このイエスを信じることで父なる神から義とみなされる。次は罪を犯さなくなることである。こうなるために自分を十字架につける。そうすれば光の中を歩むことになる。神のために自分を殺すには、神が怖いからでも、地獄が怖いからでもない。理由は神の卓越した愛による。愛する方のためなら、人は死ねるからである。この生き方が神の望まれる生き方である。この話は、他の人たちの話を探してみたが見つけることは出来なかった。多分、第一の復活によって救いが完成され、それまでは不可能だという結論になっているからだと思う。まさに自分を十字架につけることは狭き門でありこれを見出す者は少ないとイエスが言われたとおりである。

結論
十字架につくことが狭い門である。選ばれた者たちはここを通ってイエスのもとへ行き、父なる神のもとへ行く。この者は決して闇の中を歩まない。光の中を歩む。これが御霊の働きである。聖書に書かれているとおりである。御霊を与えられた者は御霊がいるかいないか分からないことはない。非常に強力な方である。だから、キリスト教世界で理解されている御霊の実体とは異なる。御霊により神の栄光のために生き、神の栄光のために死ねるのである。ヘブライ10章24節に書かれている集まることは、一世紀当時のクリスチャンにとっては必要であった。彼らは一部を除いて皆、聖徒であった。ヨハネ第一1:7で「私たちも光の中をあゆんでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち」と書いている。光の中を歩んでいるクリスチャンとなら2~3人いれば礼拝は出来るが、もし全員、実は闇の中を歩んでいるなら、交わりは保てない。中世から現代に至るまで教会には問題が多い理由がここにある。黙示録によれば、将来、神からバビロンから出るように命令が出される。さて、あなたはどうしますか?

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