見出し画像

隣の芝は青く見える 長い爪への憧れとその終わり

長らく、長い爪に憧れていた。
わたしは子どもの頃から爪を噛む悪癖があり、なんと27年間の人生で一度も手指の爪を切ったことがない。万年深爪であったため、切る爪が存在しなかったのだ。
爪は身体の末端の、不格好だったとしても生きていく上ではなんの支障もないパーツだ。それをわざわざきれいに整えるという心身や時間の余裕、そしてもちろん爪を噛むなんていう不衛生な変な癖もない、というふたつが揃った証である整えられた長い爪にわたしは憧れていた。

が、わたしは2024年に入ってからたった3ヶ月でこの長く整った爪を手に入れた。

ジェルネイルがわたしに長い爪をもたらした。わたしと同じく爪を噛む癖がある人がジェルネイルで癖が治ったという話を聞いて、ちょっとやってみようかなと思ったのがジェルネイルを始めたきっかけだ。年末年始の帰省から戻るとすぐにネイルサロンに行った。
ジェルを塗られてライト照射機に手を入れて、を片手ずつ交互に複数回繰り返すというシステマチックな施術を受けた。仕組みとして洗練されてきて、大勢の接種者をものすごい勢いで捌いていく3回目のコロナワクチン接種会場のことが思い出された。

ベルトコンベアに載せられて運ばれるモノのように、してもらうがままに爪を差し出したり機械に突っ込んだりして、わたしによって27年齧り続けられた不憫な深爪は、深爪のままではあるもののきれいに丸く整えられて、ミルクティーベージュのジェルでぷっくりと舗装された。あまりにもぷっくりして立体的なので、横から見ると小学生のときにしょうもないビンゴ大会で当たったぷっくりシールによく似ていた。

その後、3週間に一度の頻度でネイルサロンに行った。
ジェルネイルは、わたしが感じるに、生爪よりも強度があり、生爪のように簡単には齧り取れない。今まで何度も爪を噛む悪癖を治そうとしてきたが、治らなかったのは、爪を噛むものかと意識したところで、無意識のうちに噛んでしまうからだ。噛もうと思って噛んでいるのではない。寝ている間に噛んでいることもあった。朝起きると口の中に爪の破片があった。

ジェルネイルがなぜ爪を噛む癖を治すのに効果的なのか、それはジェルネイルが硬いため、噛んだところで噛み取れないからだ。噛む癖を治すというより、噛んだところで噛み取れないので、結果として爪は無事、ということだ。

頑強なジェルネイルに護られたわたしの爪は当たり前ながらすくすくと伸びて、2ヶ月後の3月には指からはみ出るくらいには伸びた。爪が指からはみ出たのはもちろん人生初だ。

かつて憧れていた、整えられた長い爪をついにわたしは手に入れた。自分には手に入らないだろうと思っていたものだ。ジェルネイルの力を借りるとものの3ヶ月で手に入った。手に入らないと思い込んでいるものは仕組みさえ変えれば簡単に手に入ってしまう、というのは人生あるあるだと思う。

が、その憧れの整えられた長い爪だが、とても使い勝手が悪い。
27年間短い爪で生きてきた。手の先端は指だった。爪ではなかった。それをここにきて「手の先端の爪があることに留意しながら、対象には腹の指で着地する」という指令をわたしの脳は出し慣れていなかった。
長く伸びた爪で頭を洗えば頭皮を引っ掻き、目やにを取ろうと目頭を触るとやはり皮膚を引っ掻き、キーボードを叩くときはカツカツとむやみにうるさく、スマホのシャッターボタンを爪で押しても認識されずここぞというシャッターチャンスを逃したりした。

わたしはどんどん長い爪が鬱陶しくなってきた。かつては憧れていた長い爪だが、このとおり不便だし、なんなら短い爪のほうが清潔に見えるな、とすら思い始めた。
「長いネイルをしている女性は、家事ができなさそう」という男性の意見がかつて叩かれていた。そのセリフには「家事は女性にやってほしい」という男性の願望が滲み出ており、彼女や妻はあなたの家政婦さんではないのだぞ、という気持ちはあるものの、「爪が長い人は家事をしなさそう」と思う理由は、今ならわかる気がする。爪が長いと、家事に限らず何事においても普通にやりにくい。なぜなら爪には神経が通っていない。爪先と指先の距離が離れれば離れるほど、その神経の通っていない爪先と対象との距離感を正しく掴むセンスが必要になってくる。車両感覚のようなものだ。車両感覚のセンスがあるドライバーとないドライバーがいる。ないドライバーは車を何かにぶつける。それと同じだ。長年爪が長い人はきっと長い爪がついた手を動かすことに慣れており、運転歴の長いドライバーの車両感覚が磨かれているように、車両感覚ならぬ爪感覚も磨かれていると思う。そういう人によっては長い爪が何かの妨げになることはないだろうが、わたしのような最近爪を伸ばした人間には無理だ。

自分に相応しいのは短い爪だったのだな、というところにわたしは帰ってきた。
3月、伸び切った爪を整えてもらうためにまたネイルサロンにきた。
ネイリストさんが爪をやすりで整えてくれ、「お爪、こんな感じで大丈夫ですか?」「もうちょっと短くお願いします」のやり取りを2回もした。
そして仕上がった爪がこれだ。

やたら「短めで」とオーダーする客の爪

指先から爪先が出ることがない程度に短く、しかし縦長(=深爪ではない)で、先端はやすりできれいに丸く整えられ、ジェルに加えて保湿剤だのオイルだのをたくさん塗ってもらえたのでツヤツヤしている。

「これだ!」と思った。自分に必要な爪はこれだ!
自分でいうのもアレだが、健康的で清潔感がある。長く装飾的な爪も美しいが、その美しさはわたしにはそぐわないものだったらしい。
ちなみに噛みに噛まれていた深爪は、「どうせ伸びたところで噛まれるから全部無駄」と学習性無気力的なものがあるのか、十分に栄養を摂っていても爪まで栄養が行き届かず、色は白く、縦縞が何本も入っていた。不健康に見える爪だった。

憧れていたものを手に入れると、案外いいものでもないんだな、と気づく、ということがわたしの人生ではよくある。長い爪もそのひとつだった。ガッカリしているとかではなく、手に入らないと思っていた長い爪が手に入ったこと、そしてそれが自分にはそぐわなかったことが判明したことを喜んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?