「3.11」を知らない僕の感情論

2021年3月11日。ちょっと久しぶりにnoteの筆を取ろうと思った。

まず最初に注意喚起をしておく。これからする話は、人によっては不謹慎と思うものばかりだ。だからそう感じたり、感じると思うのなら読むのをやめてほしい。ただ、読んでからケチをつけたり文句を言うのは遠慮してもらいたい。何を思おうが、思想はこちらの勝手だ。それを否定することは自分の考えを他者に押し付けることと何ら変わらない。

これからするのは、今から10年前、2011年3月11日の話だ。何があったかはご存知の通り。東北地方太平洋沖地震、そしてそれを発端とした一連の戦後最悪の自然災害、東日本大震災だ。

タイトルに、僕は「3.11」を知らない、と書いた。全くもってその通りだ。テレビやYouTubeで流れた映像を見たり、ニュースの文面を通してそういうことがあった、という事実を知っているだけ。実際にそれを体験したわけでも、その場所に行って惨状を目の当たりにしたわけでもない。言うなれば、戦争の話を祖父母から聞いた、というのと実質的には何の変わりもない。それで知ってる、というのはあまりにも傲慢なことだ。だから、全くの他人として、純粋に思ったことを書きたいと思う。

その当時の自分は小学6年生。あと少しで卒業というタイミングでクラス内でインフルエンザが突然流行り、学級閉鎖になっていた。その頃には既に治っていた自分は親戚のおばさんの家に遊びに行っていた。ちょうどその時はミヤネ屋で当時の石原慎太郎東京都知事が出馬会見を開こうとしていたところだったのだが、東京のスタジオが急に揺れだしたので、こういう時にはとチャンネルをNHKに変えた。その瞬間のニュースキャスターの最初の言葉がこれだった。

「震度7が 宮城県北部」

それからの一連、もう今更時効だろうから言わせてもらう。この時、その後感じた気持ちの全てを。

興奮した。

その後、津波が全てを押し流していく映像を、とにかく釘付けになって見ていた。それから発表の度に上方修正されていくマグニチュード。

その全てに、とにかく興奮した。感動した。面白いとすら思った。この光景を、ずっと見ていたいとすら。

その当時やっていた習い事から戻り再びテレビをつけたらマグニチュードは8.8に修正されていた。「国内観測史上最大」この文字列に、やっぱり心が躍った。津波が街を押し流し、炎が街を吞み込む様を見ながら、ただただ笑いを浮かべ続けていた。今思い返してもその時の自分に、悲しいとか可哀想とか、そんな感情は1ミリも湧くことはなかった。興奮、恍惚、ただそれだけが心を支配していた。自然ってこんなにもすごいんだ。自然の前には人間なんて成す術もないんだ。人間の奢りが粉々にされていく様は、美しいとさえ感じた。

そうだ。こんなのは自分が当事者ではないから言えることだ。こんな感情を抱いておいてこの大災害を経験した身であるかのように振舞う資格などない。ましてや被災者の方に恨まれ刺されたとしても仕方のないことだと思う。

ただ一つ問わせてほしい。この時自分が抱いたこの気持ち、噓偽りない感情は罪なのか?周りが悲しんでるから自分も悲しまなくちゃいけないのか?自分はそんなことはないと思う。それに、あの時同じような感情を抱いた人は他にもいると思うし、その人たちが罪悪感を感じる必要もないと思う。だってこれは人の不幸を嘲笑っているわけでも何でもない。ただ、経験したことのない事態を前にして興奮した、それだけのことだ。一番わかりやすい例えがあるとすればあれだ。「様子を見に行く」って言ってそのまま行方不明になるやつ。何でわざわざ死にに行くのかみたいな言論よく見るけど、自分にはその気持ちがよく分かるし、実際に台風一過の増水した川を見に行ってしまったことだってある。これを逃したら二度と見れないかもしれない、その好奇心は命と秤にかけるほどの価値を持つ。そう思っている人間だって存在するんだ。別におかしなことじゃない。

そしてその後。地震って、自然ってこんなにすごいんだと思った自分は、こんなすごい現象についてもっと知りたいと思った。小さい頃から図鑑とか雑学系の本が好きだったこともあって、本屋でニュートンとか科学雑誌を買って読んだり、気象庁のサイトを見たり。ただ、最終的には文系になってしまったわけだけど。ただまぁ、今でもこの方面についての知識は人並みより少し上くらいはあるんじゃないかとは自負している。

ただ、そんな感情も絶対ではなく、人の心は変わるものなのかもしれないと思う出来事があった。それが3年前。大阪で震度6弱を記録した地震があった。多分、初めて自分にとっての大事な存在が災害に巻き込まれ、そしてそれを自覚した出来事だったと思う。幸い、向こうにいた親しい友達はいずれも生活が脅かされるほどの被害に遭うことはなかった。ただ、それからしばらくずっと心が塞ぐ日々が続いた。それは共感疲労というよりはむしろ逆の、共感できないが故の苦しみだった。大変な思いを、怖い思いをしたかもしれない、でもそれを自分には理解できないし、どうすることもできない故のもどかしさ、それに結局自分にとって大切なもののことしか考えることができないことへの自己嫌悪だった。

その後、一昨年の台風19号で、地元で川の堤防が決壊した。幸い実家がある地域ではなく実家は全くの無事だったが、少し近所では洪水被害があったりしたようだ。その時の自分には、結局3.11の時からちゃんと災害を自分の目で見れてない、結局「知らない」ままだという気持ちがあった。どこかでちゃんと自分の目で見ないといけない。そう思い、11月の3連休と文化祭期間を使いボランティアのために帰省することにした。

そこで見たのは、社殿を完全に流された神社や外壁が破壊され鉄骨が剥き出しになった体育館、中が泥だらけになった家屋、そして高く積まれた瓦礫の山だった。それでもやっぱり、悲しいという感情が湧くことはなく、自然の力ってすごいというあの時とほぼ同じ感情だった。結局この気持ちはこの先、大切な存在を亡くすような出来事でもしない限り変わらないんだろうなと思った。でもこの時、3.11やその前年の大阪の地震だったり7月の豪雨だったり北海道の地震だったりで抱いた結局自分は何もできない、知ることもできないという無力感を少しだけ晴らせた気がした。それは自分にとって十分価値のあることだったと思う。

さて、何を伝えたいのかわからない、自分の体験談ばかりを並べてしまったが。もし10年前のあの日、自分と同じように悲しいとかの感情を抱けなかった自分と同じ人間がいたとしたら、言っておきたい。それはおかしいことじゃないよって。だってそうでしょう?自分がいないどこかで何万人という犠牲が出て、それをテレビで映し出されて、今自分がいる国のどこかでこんな大変なことが起きてます喪に服しましょうって言われても、は?って感じでしょ?むしろ僕にとっては自分と関係ないことを勝手に悲しんでる人間の方がよくわからない。勿論最初に述べた通り、それがその人の心からの感情なら、それを尊重するし、優しい人なんだなって思うし、その優しさが羨ましいとも思う。でも世の中の大多数の人間は、赤の他人に思い遣りをあげられるほどの心の余裕なんてないだろうし。だから、自分の感情を無理しないでほしい。自分と違う場所で誰かが辛い思いをしてるからって、いちいちそれに共感しようなんてしてたら、きっと心が壊れてしまうから。

かと言って、最初からこんな風に開き直れたわけではなかった。どこかで周りと同じ感情を抱けないことに対する罪悪感みたいなものがあったわけだけど、それにちゃんと決着をつけさせてくれた1つの歌があった。それがSEKAI NO OWARIの「Hey Ho」。

紅白でも披露されたことがあるくらいだから知ってる人も多いかもしれない。自分は楽器を習っていたのもあって歌詞より先に音に意識が行くタイプなので、最初はアイリッシュで華やかなサウンドが好きになった。ふと歌詞に意識を移した時、この曲の2番はこう歌っていた。

例えば君がテレビから 流れてくる悲しいニュースを見ても
心が動かなくても それは普通のことなんだと思う
誰かを助けることは 義務じゃないと僕は思うんだ
笑顔を見れる権利なんだ 自分のためなんだ

ああ、そうなんだなって。あの時の気持ちは別に間違いじゃなかったよなって思えた。何が正しいとか間違いとかそういうことはないんだなって、やっと自分の中で決着をつけれた。ありがとうセカオワ。

そういうわけだ。相も変わらず文章力がなさ過ぎてグダグダな文章構成になってしまった。この日を狙ってこんな文章を書いてしまっている時点で3.11という日付に縛られまくっている自分が言うのも何だけど、普通の一日を、普通に生きよう。それでいい。誰も、何も言わない。それが、当事者でない、あの日の出来事を「知らない」僕らができる最善なんだ。...ただYahoo検索は寄付できるからどんどんしてこう。

それに、日本にいる以上、この先何度だって災害は起きるし、あの日を超える大惨事だって起きるかもしれない。その時、何の感情も抱けなくても、或いはあの日の自分のような感動に近い興奮を覚えたとしても、それは間違ってない。自分の噓偽りのない感情ならば、それを肯定してほしいと願う。

以上。10年越し、家族以外の誰にも言えなかったことを、こういう形で晴らすことができた。出来れば色々な人に読んでほしいが、最初に書いた通り人によっては不快感を覚えるだろうし無理にとは言わない。ただ誰にも読んでもらえなかったとしても、これを言葉にできただけで大いに意味があった。ありがとう。今日という一日が、誰かにとっての幸せであることを、心から願います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?