第1章 近くて遠い肉(2/2)

二日酔いの苦しさと体にしみついたタバコ臭さで目を覚ました。なにも達成していないにも関わらず、僕は興奮していた。

起きてからすぐにインターネットで声のかけ方を調べた。そこには「そのブーツかわいいね」と言う代わりに「そのブーツ、強そうだね。誰倒しにきたん?」と言った方がインパクトがあると書いてあった。あの場所で通用するのは、こういうことなのだろうか。自分にはそんなことは言えない。それを言う必然性がないからだ。言えそうだと思い浮かぶのは「こんばんは」くらいだった。

そして、その日の夜にまた同じクラブに行った。話しかけるのに、なにかよい案が浮かんだわけではない。それでも行かなければいけない気がした。
昨日と同じようにテキーラを一杯飲んだ。この場所の様子がどんなものか、昨日よりは落ち着いて見ることができた。この場所に溶け込んでいる自信のありそうな男性もいれば、この場所に慣れていなさそうな男性もいた。女性も綺麗な人はそんなにいない。彼女たちをよく見ると、ゴテゴテに化粧が施されて、表情がなく不気味だったり、傲慢そうな笑みを浮かべたりしている。自信のありそうな柔らかい表情の女性もいた。こんな人と知り合えたらいいのにと思うと気持ちが柔らかくなるが、彼女が他の人と話しているのを見ると苦しくなった。
何人か一人でキョロキョロと周りを見渡している男性がいた。スーツ姿の人もいれば、ギャル男風の格好の人もいる。彼らも僕と同じ目的で来たのだろう。しかし、自分が女性なら、彼らのような男性たちとは話したくない。なんだか余裕がなくて怖い感じがした。すぐに動かないと僕も彼らと同じようになってしまう。

三十代前半の女性がカウンターの端に一人で立っているのが目に入った。若い女性と比べれば話しやすそうだった。地味な人だった。この人に声をかけることができなければもうあとはないと、直感的に思った。

彼女に目を据えたまま動けなくなった。それまで僕を圧迫していた周囲の音が消え、人々の姿も風景のようになった。彼女の姿しか見えない。鳩尾が締めつけられ声をかけるのは無理だと思うとそのあとすぐに、これがチャンスなのだと一瞬昂ぶった。それからすぐにまた鳩尾が締めつけられ、そのあとに昂ぶった。すごい速さで自信のまったくない鬱状態と、確信に満ちた躁状態とが繰り返されていた。徐々に締めつけが強くなっていき、昂ぶりは消えそうになっていた。このままだと鳩尾が締めつけられたまま完全に動けなくなってしまう。次に確信を持てたときに動き出さなければ。

消え入りそうになっている昂ぶりを感じた瞬間、一歩を踏み出した。そのまま体は勝手に動いた。

静かだった。ほんの一、二秒ほどの時間だったが、そのときだけ真っ白で時間の流れていない世界にいるようだった。

「すいません。」

声を発したとき、真っ白な世界はなくなり、一気に周りの騒音が聞こえた。止まっていた時間の流れが、急にとてつもない速さで進み始めた。

「なにー?」

彼女の表情が瞬時に陽気に変わり、僕の方に顔が向けられた。意外だった。拒絶されると思ったが、すんなりと会話が始まってしまった。僕のこれまでの他人に対する怯えはどこか間違っていたのだろうか。次の言葉が見つからない。もうなんでもいいと、言葉をひねり出すように言った。

「一人ですか?」

「聞こえない!」

彼女は体を近づけてきて叫んだ。

「一人ですか⁉」

自然と彼女の耳元に近づいて話した。彼女もまた同じようにして、僕に近づいた。彼女は魅力的ではなかったが、出会ったばかりの女性が体を近寄せてきてくれたことにほっとした。

「二人だよ。友だちはトイレ行ってるから待ってるの。」

「そうなんですか。」

これから先、なにを話していいかわからず、彼女の近くで立ち尽くした。彼女が気まずそうにグラスを口に運ぶのを見て、さらに固まった。動いてくれと自分に念じた。口に出すべき言葉が見つからない。彼女は僕がなにも言わないからか、つまらなさそうな、少し落ち着かなさそうな様子をしていた。

「あれ? どうしたの?」

現れたのは、長身の綺麗な女性だった。少しウェーブのかかった長い黒髪に、体の線を強調しているベージュのワンピースが目に入った。化粧は薄くても、もともとの顔立ちが整っているために、色気があり、立ち姿には品があった。僕はお辞儀をした。

「あ、はじめまして。今、お話ししてて……」

「かわいい! こんな子もいるのね。」

「ありがとうございます。二人でなにかしてたんですか?」

彼女の好意的な反応に、すっと言葉が出た。

「今日、合コンだったの。その反省会。ね。」

「うん。」

二人が向き合い、どちらも僕の方から視線をそらした。またなにを言っていいかわからなくなった。しかし、彼女の美しさに引っ張られるように僕は言葉をひねり出していた。

「あの、どこか一緒に、三人で行きませんか?」

「今日は二人で飲むの、ごめんね。」

たしなめるような優しい声だった。

「じゃあ……今度、一緒に飲んで欲しいです。」

稚拙なお願いだが、それ以外に思いつかなかった。

「いいよー。」

彼女は笑顔で言った。あまりにあっさりと受け容れられたことに気が抜けた。

連絡先を交換すると、たったそれだけなのに、彼女のワンピース、化粧、麻衣という名前……それらを手に入れたような感じがした。

もう一人の女性とも交換をしたが、それはその女性の機嫌を損ねないようにするためだった。なぜこのような機転が利いたのか、自分でもわからなかった。

「ありがとうございました。」

彼女たちにそう言ってお辞儀をすると、「うん、じゃあねー」と麻衣さんが軽く手を振ってくれた。

それからも声をかけようと中を歩いてみたが、初めての成功のおかげで抵抗感は薄れているものの、誰に声をかけていいのか決められず、外に出ることにした。出るときに遠くから麻衣さんたちの姿を探した。彼女たちは変わらず二人で話していたが、その近くには彼女たちに話しかけようと考えているのか、二人を見ている二人組の男性がいた。僕は遠目に彼らがどうするのかを見ていたが、結局彼らは動かなかった。外に出ると、さっきまでの喧騒が徐々に遠くなり、視界がパッと広がった。

クラブを出たところでは、スーツ姿の二人の男性が、同じく二人の女性に声をかけていた。

「ねぇねぇ、どこ行くのー?」

男性の一人が馴れ馴れしく、にやつきながら声をかけた。

「待ち合わせ。」

女性は彼をバカにするように、無表情で拒絶するように答えた。

「俺らと?」

「違うって。」

女性は少し笑った。彼らはそのまま歩いていった。僕は立ち止まってその四人を見ていた。彼らのようになりたいとは思えなかった。しかし、彼らのようにできないことが悔しかった。その悔しさを偽れば、僕に先はないことだけは確かだと思った。

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